藤   堂 

解説

近江藤堂氏の出自については、諸説あり。

分派氏族

 

1,中原姓− 近江国愛知郡長野郷藤堂村より起こりしにて、当国中原氏の族なりと。

       歴名士代に「藤堂美作守中景長(文明九年二月十三日、従四位下)」を

       載せ、花押薮に中原とあり。

2,佐々木氏族 近江国犬上郡藤堂村より起こる。佐々木氏の族 高久の裔なりと。

       輿地志略に「当郡在士村八幡宮に藤あり。開花の時、神職、この花を

       藤堂家に贈る。藤堂の名は、この藤より起これり」と。

3,藤原姓 ェ政系譜 この氏を藤原支流に収め、家譜に、「先祖 三河守 景盛

       近江国犬上郡数村を領し、初めて藤堂を称す。これより連綿して、高虎なり」と。

  和泉守高虎−高次−高久−高睦=高敏=高冶=高朗−高悠=高嶷−高ッ=高兌−高猷−高潔−高紹 伊勢津 三十二万石 家紋 丸に鳩酸草 明治 伯爵

4,丹羽系藤堂氏 − − 初め上記 藤堂高虎、子無く、秀吉 命じて、丹羽長秀の三男 高吉(幼名 仙丸)を子となす。

藤堂宮内少輔高吉と称す。高吉、養父 高虎、共に朝鮮の役に高名を現し、関が原の役では

東軍に味方して後、二万石を賜う。その後、高虎、高次を生む。実子なれば高次、父の跡を継ぎ、

高吉は別家になる。その後の系図は「高好(津藩番頭)−長助−長保−長徳−高観」なり。

5,家臣 鈴木高刑 − − 本国 近江、高虎に仕え、藤堂氏を賜う。高経に至り、七千石を領し津の城代となり、

番頭を兼ねる。その裔 高因、その子 高莫(左にゴンベンあり)−高基なり。

又、多羅尾四郎兵衛光俊の子 光誠は、本国 近江、高虎に仕え、藤堂氏を賜う。

その裔 光明−光名−光信−光摸なり。

6,紀伊の藤堂氏 続風土記 牟婁郡上三栖村條に「古城跡、村の東にあり。藤堂

       與右衛門、宇野若狭、青木勘兵衛の附城と云い伝う」と。

       又、西山郷赤木村「古城跡。村の西岡山の上にあり。村民伝えて、藤堂

       佐渡守の居城なり」と。

       又、「粉河村、城跡は、慶長の頃、藤堂大学頭 居城の跡と云い伝う」とあり。

7,清和源氏足利氏族 吉良系図に「吉良東條経氏の子 経家( 藤堂)」とあり。

8,他 


* 「ルーツ発見・名字の由来」のトップページに戻る