戸   村

解説

数流あり

島根県美濃郡匹見町石谷、茨城県戸多村(水戸)にこの地名あり。

分派氏族

 

1,秀郷流藤原姓那珂氏族 常陸国那珂郡戸村より起こる。那珂通泰の弟 能通

       戸村小三郎と称す。その子を小三郎と云う新編国志に「戸村。江戸通兼

       の二子 小三郎通能、その子 小三郎(名欠)、承久三年、北条泰時に

       従って、宇治川に戦い、敵二人を斬り、勅使左衛門入道を獲りたり」と。

2,清和源氏佐竹氏族 −常陸国那珂郡戸村は、後に佐竹領となる。佐竹系図に

       「佐竹右馬権頭義盛の養子 義憲(上杉憲定の男)の子 義倭(戸村八郎)」と。

       支族系図に「戸村。竹道−義倭=義易−義広−義知−義広」と。

       又、一本に「佐竹義仁−義倭(戸村左馬介、伊予守)−義易−義広−義知

       −義和−忠義−義宗(十大夫)」とあり。

3,秋田の戸村氏 上記 十大夫義宗、慶長七年、佐竹義宜に従い、羽後国に移る。

       後、戸村十大夫義国は 大阪の陣に功多し。子孫 横手に拠る。郡村志に

       「横手は家居 凡そ二千五百戸、戸村十大夫、知行高 六千三百石にて、

       これを守る。家士、給士、凡そ七百戸、城山は、高さ十八丈、小野寺氏

       退転の後、御当家の伊達三河守盛重、須田美濃守盛秀より 主膳盛次

       まで三代、ェ文十二年 戸村十大夫義連より以後 代々居城たり」とあり。

4,修験戸村氏 2項の後にして、新編国志に「栗崎に修験妙王院あり。今、

       二階堂大先達と称す。開創 不詳。もと清僧 この院に居る。中世 佐竹の族、

戸村八郎義和の末子 宥圓、住持の時に肉食妻帯して、修験者となる。

これより子孫相続して、代々年行事を勤む。宥覚の代に至りて、

       貞享元年、水戸義公 聖護院法親王に請いて、鎌倉将軍の時の鎌倉二階堂の

大先達に准擬せられ、よって二階堂と称す。それより日本大先達

       二十八人のその一員となして、新治郡、行方郡、那珂郡、及び野州

       武茂組の山伏の支配を命ぜらる。又、久慈郡四間権現の別当を兼ぬ」とあり。

5,他


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