|
富 田(トミタ・トダ) |
解説 |
諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす。 |
分派氏族 |
|
1,桓武平氏 − − 伊勢平氏の一にして、同国朝明郡富田庄より起こる。
名勝志に「富田進士平家資、ここに居る。元暦元年七月、平氏の族
乱を作す云々」と。
系図は「家資−教光(慶光、度光)−富田盛基(基度)」と。
2,中臣姓 − − 大和春日社司、南郷の一なり。歴名士代に
「春日社正預富田中臣延時(永禄七年)」と。
3,橘姓楠木氏族 − − 河内国丹比郡富田庄(丹北郡)より起こる。
楠氏党勤王の士に正武あり、湊川に戦死す。広厳寺楠一族霊牌に
「富田七郎正武」とあり。
又、石川郡毛人谷城(富田林町毛人谷)は、楠木正成の設けし城塞の
一にして、後、富田氏の属城となるとぞ。
4,岩城国の富田氏 − − 幕末 相馬藩に富田久助高慶あり、二宮尊徳の高弟なり。
5,摂津の富田氏 − − 嶋上郡の富田荘より起こる。細川両家記に「永禄四年五月、
細川晴元、入道ありて一清と号し申され候。修理大夫殿と御和睦ありて、
勢州富田荘 普門寺へ入り申され候、富田荘御料所を付せられ、御馳走
候」云々とある地にして、富田城は、富田氏の古城なりと云う。
紀姓で、家紋に、蔦、団扇(内に竹の木)の富田氏は、この流か。
6,源姓− − 周防国都濃郡富田郷より起こる。海東諸国志に「盛祥。戊子年、使いを
遣わして来たり観音現像を賀し、兼ねて漂流人を報じ、書して富田津
代官源朝臣盛祥と称す」と載せ、
又、戊子入明記に「富田。勘合印船弥増丸千斛」とあり。
7,藤原北家熊野別当族 − − 紀伊国牟婁郡富田村より起こる。熊野別当系図に
「鶴原行範(新宮)の子 善豪(富田、那智執行法印)」。
又「行範の弟 範智(別当法印)−範秀(富田法橋)−範仁(富田法橋)
−範盛」と。
而して、続風土記、牟婁郡吉田村旧家六郎右衛門條に「その祖は、熊野
別当泰救の五代 範智の弟 範秀と云う。当村に来たり住し、富田法橋と
号す。範秀の孫 範盛も富田に住して、吉田少将と云い、富田南荘を領す。
その後 天正中、領地に放たれ、土民となれり」とあり。
8,日高の富田氏 − − 続風土記、日高郡印南原村條に「古城跡、中越にあり。昔
当所の領主 富田牛之助の居城と云う。重編応仁記に『牛之助は、畠山
高政の属臣、永禄五年、三好乱の際 討死す』とあり」と。
9,讃岐の富田氏 − − 寒河郡富田村より起こり、大井城に拠る。富田左近光輝など
有り。安富氏麾下の将なり。
10,阿波の富田氏 − − 名東郡の富田庄より起こる。この地に富田社(富田禰宜)あり。
11,伊予の富田氏 − − 太平記巻二十二に、富田六郎の名あり。南朝の忠臣なり。
12,藤原南家伊東氏族 − − 日向国那珂郡の富田庄より起る。この地は図田帳に
「富田庄 八十町、地頭 工藤藤原衛門尉」と。
又、「富田は、田島の庶子 富田殿」と云い、富田助五郎など多くあり。
13,大友氏族 − − 豊後の名族にして、大友系図に
「左近将監親時−重政(矢野)−重房(矢野九郎)−信繁(富田蔵人大夫)」と。
14,清和源氏宇野氏族 − − 肥後の名族にして、隈部系図に
「宇野治部大輔親興−親門−家光(富田次郎、法名 周禅、今村観音寺に葬す)−景直
−景治(兵庫頭)−元治(兵庫頭)」とあり。
15,佐々木氏族 − − 出雲国能義郡の富田村より起るとも、近江国浅井郡の富田村より起るとも云う。
佐々木隠岐守より別れしにて、佐々木系図に「佐々木五郎義清−泰清(出雲守、隠岐守)
−義泰(号 富田四郎左衛門、法名 義覚)−泰茂、弟 師泰−貞泰、弟 秀貞−直貞−尊光」と。
太平記巻三十八に「備後へは、富田判官 秀貞の子息 弾正少弼直貞、八百余騎、出雲より直ちに
国中へ打ち出たるに、江田、広沢、三吉の一族 馳せ着きけるの間、程なく二千余騎になりけり。
富田、その勢を合わせて 宮下野入道の城を攻めんとする処に、石見の国より足利左兵衛佐直冬、
五百騎計にて、富田に力を合せんと、備後の宮内へ出でられたりける」とあり。
16,清和源氏 − − 山城発祥にして、源満政の子 忠重の後裔なりと云う。
足利義輝の臣 豊後守直久より系あり。ェ政系譜に
「直久−忠左衛門久次−與右衛門兼久−右馬丞景久−忠左衛門良久、家紋、丸に二引、揚羽蝶」と。
17,近江の富田氏 − − 当国愛知郡に富田の庄あり、又、浅井郡にも富田村あり。
この氏はこれらの地名を負いしにて、数流あり。
ェ政系譜に「四郎左衛門尉義泰−佐渡守師泰−秀貞(伊予守)−弾正少弼直秀−玄蕃頭重知
−信濃守助知−左近将監知信(秀吉に仕え 伊勢安濃 五万石を領す)−平九郎信高(知勝、知治、
信濃守。伊予宇和島十二万石)−主膳知儀−又助知郷−主膳知徳−八十郎知真−能登守明親−忠務知良、
家紋、丸に鷹羽違、四目結、違い大根」と。第15項の族なり。
18,三河の富田氏 − − 当国加茂郡富田村あり、この地より起りしもあらん。
伴氏系図に「幡豆五郎親助の子助能、富田五郎と号す」とあり。
又、「設楽太郎俊実−富永九郎資満−資通(富田馬七郎)」とあり。
又、当国渥美郡雉子山城(高師村高師)は、ェ正年間、この地の地頭 富田弾正居城す。
19,甲斐の富田氏 − − 都留郡上野原七騎に富田氏あり。
又、巨摩郡に富田対馬守あり。
20,有道姓児玉党 − − 武蔵国児玉郡富田村より起こる。武蔵七党系図に
「実行の子 親行(富田三郎)」とあり。
21,上野の富田氏 − − 当国勢多郡に富田村あり、この地名を名乗りしもあらん。
又、吾妻郡の名族に見え、我妻七騎に
「岩下・富田伊予守、山田・富田豊前守、山田・富田伊賀守」等あり。
又、倉賀野十六騎に富田伊勢守あり。
22,秀郷流藤原姓足利氏族 − − 上野国発祥と云う。
「足利有綱−信綱−雅綱−時綱−治綱−富田藤四郎」の後なりと。
この流二家、寛政系譜にあり。家紋、丸に橘、丸の内 割桔梗に一文字。
一家は「次郎兵衛−金十郎−庄兵衛政勝−庄兵衛政成−四郎左衛門政連−庄兵衛政善」とあり。
もう一家は「勝兵衛景弘−勝五郎景教−庄兵衛景久−明景」と。
23,秀郷流藤原姓長沼氏族 − − 下野国都賀郡の富田庄より起る。
長沼系図に「駿河守宗恒−駿河守宗千(藤四郎)−重晴(富田十郎・都賀郡富田の住人)」とあり。
24,秀郷流藤原姓皆川氏族 − − 重興皆川系図に
「淡路守秀宗−同氏秀−成忠(富田左衛門尉)−忠宗(富田駿河守、一に左衛門尉)」とあり。
これも長沼一族(皆川は長沼の分家)なり。
国志に「富田に如意輪寺あり、皆川の一族 富田駿河守忠宗の建立する所」とあり。
25,秀郷流藤原姓小山氏流 − −
下野の富田氏にして、
「藤井玄蕃頭英利−利房(富田又十郎、玄蕃頭。弟の俊行は富田亦七郎
と云い、武芸の達人なりと)−利重(又十郎、天文十五年、古河落城の後、
小田原北條氏政に仕う)−行重(又十郎、皆川山城守敗滅の時、ともに
落城す。弟 行房は、富田與吉、片柳に住して氏となす、片柳の祖なり。
その弟 行正は、天正十八年、兄 行房、吉原合戦の時 討死。その弟
行仲は、天正三年五月、押合戦に討死)−重元(又十郎)」なりと。
館林盛衰記に「都賀郡藤岡城主 富田又十郎」、
関八州古戦録に「藤岡の富田又重郎」などあり。
26,桓武平氏大掾氏族 − − 常陸国行方郡富田村より起る。
新編国志に「富田。麻生宗幹の二子 吉幹、初め麻生次郎と称す(系図)。文永元年、
その宗幹、行方氏に代わって大使たり(大使役記)。後、うつりて富田に居り、
富田兵庫助(吉幹)と称す」とあり。その子 通幹、二男 幹次(井関氏となる)なり。
27,桓武平氏磐城氏族 − − 磐城国磐城郡の富田村(戸田)より起る。トダ氏ならん。
磐城系図に「磐崎三郎隆久−忠隆−基行(富田五郎)−氏基−隆行(菅波)、弟 隆氏(長谷)」とあり。
28,白川の富田氏 − − 磐城国白川郡富田村より起る。天正の頃、富田若狭守ありて、佐竹氏に属す。
29,会津の富田氏 − − 葦名家の宿老にして、葦名氏、在 鎌倉の間は、その代官として会津を治める。
新編風土記に「会津郡下荒井城跡は葦名氏の時、その臣 富田氏をして守らしむ」とあり。
又、「耶麻郡の塚原村館跡。相伝えて 富田将監居りしと云う。将監は、葦名四天の一、
富田美作の嫡子なり。天正時代 磨上原の軍に、葦名の先陣を承り、大いに励み、血戦、
力を尽くす。斯くて味方に返忠の者ありて、葦名方 総敗軍となり、義広、退いて黒川の城に
入りしかば、将監も力なく引き退き、遂に義広に従って常陸の佐竹に逃れし」とあり。
又、仙台伊達家の名臣 富田二左衛門(壱岐)氏紹も会津冨田氏の後なり。壱岐、幼主を助けて
功多く、二千石を賜い、小野村を領す。
30,藤原南家伊東氏族 − − 岩代国安積郡富田村より起こり、富田館に拠る。安積伊東の族にして、
伊東家譜に「伊東大和守祐盛、享禄三年秋、富田に移り住む。これ富田伊東の祖なり」とあり。
又、「富田左衛門晴光、富田城に住す。天正九年、安積城に於いて討死」などとあり。
又、仙道記に富田右近あり、田村清顕に属す。
31,加賀の富田氏 − − 当国河北郡に富田村あり、この地より起りしもあらん。
前田利家の家臣に富田(トダ)治部左衛門景政あり。養子 重政は、剣術の流派の一つ富田(トダ)流を広める。
伝え云う「朝倉家臣に富田九郎左衛門長家あり。大橋勘解由左衛門より 中條流 剣法を承り
富田流を創む。その子 治部左衛門景家 その子 五郎右衛門入道勢源、その弟 治部左衛門景政(
前田利家に仕え四千石、後、関白秀次の師たり)、その養子 六左衛門重政、前田利家に仕え、
下野守、後、越後守たり。一万三千六百石を食み、剣道にて名人 越後と呼ばれ
柳生宗矩と
並び称せらる。その子 主計重家、その弟 重康、また越後と称し、晩年中風を病み、中風越後と呼ばる。
その子 重次 また重康の弟に宗高あれど、嗣なくして家絶える」と。
又、重政の門に富田一放ありて、一放流を創む。
又、富田牛生あり、富田流剣術の祖にして、佐分利、打身、中根などの
諸流は、皆この流より分かれるとぞ。
加賀藩給帳に「二千五百石(紋、コウケチ《纐纈・目結のこと》、人扶持)富田治部左衛門。
千四百石(紋、同)富田主殿。三百石(紋、同)富田宮内。二千四百石(紋、四ツ目、人扶持)富田織人。
百五十石(紋、四ツ目)富田堅六。六百石(紋、剣花菱)富田矢次兵衛。百五十石(紋、立木瓜)富田栄左衛門。
三百五十石(紋、鞠挟み)富田儀右衛門」等とあり。
32,日下部姓 − − 越前の名族にして、朝倉氏の族なり。「朝倉氏の末頃、府中に富田弥六郎(弥太郎)長秀あり。
元亀三年八月、織田氏に内通す。天正元年、朝倉義景滅ぶや 信長、前波吉継を越前の守護代に補す。
吉継 名を桂田長俊と改め、一乗谷に居り、長秀の府中城を収め、その采村を減ず。
長秀これを恨み、二年正月、兵を志津の荘 中郡に募りて 十九日、急に長俊を一乗谷に襲う。兵、
総て十万八千、長俊自殺す。それより先、一向宗 徒党を組みて、争闘す。その一党、七里三河守を
推して 鬼酋となし、三年二月、越前を侵略して、長崎、河合荘、片山などを抜き、朝倉義健を
長泉寺に攻めてこれを殺す。既にして、府中を攻め、長秀 郊外に出でて拒ぎ戦死す」と。
*朝倉氏の紋は 木瓜なり。
33,他
* 「ルーツ発見・名字の由来」のトップページに戻る