寺   島

解説

下総、遠江、三河、筑後などに この地名あり。

 

国土基本地図に26ヶ所あり。

 

1、桓武平氏− −下総国葛飾郡寺島村より起こりしか。東鑑四十九に「寺島小次郎時村」の名あり。

2、清和源氏今川氏族 駿河国発祥の名族にして、家伝に

     「今川義忠の二男 那波義幹の子孫なり」と云う。

     ェ政系譜に「孫右衛門尚利(孫太郎)−又四郎尚常(藤四郎)−又四郎尚包(紋左衛門)−尚快、

     家紋、井桁、五七桐、結雁金」とあり。

3、佐々木氏族 安房発祥なりと云い、家伝に

     「京極高国の五男 高規の養子 高林、寺島を称す」と。家紋、角四目結、五七桐。

4、越中の寺島氏 婦負郡の名族にして、西野氏の後なり。三州志、婦負郡瀧山(宮崎 福山)條に

     「寺島半助、水島甚助 居たるに、天正六年、成政の為に攻められ、野積谷高嶺 大道村へ

     退きて和し、それより成政の将となると云う。按ずるに寺島などの伝に『父を西野隼人と

     云う。越中の将なり。後に神保氏春に仕え、剃髪して宗慶と号す。宗慶に三子あり、一男を

     甚助と云う。氏春 姓を槻尾と改む。二男を半助と云う、姓を寺島と称し、成政に仕う。

     瑞龍公、甚助に二千石を賜い、半助に千五百石を賜う。三男を左内と云う、出家して

     越中勢田に住し、船湖と号す。甚助は、槻尾甚之助の祖、半助は、寺島蔵人の祖なり』と

     見ゆ」とあり。

     又、射水郡小泉城(浅井郷小泉村)も寺島半助の居城と云う。子孫 加賀藩給帳に

     「三百石 家紋、丸の内に三星、寺島主馬」とあり。

5、摂津の寺島氏 大阪市南瓦屋町の名族にして、尼崎、山村の二氏と共に江戸時代、大阪

     三町人の一と呼ばれる。伝え云う「先祖、三郎左衛門、紀州 根来より天王寺に来り、瓦職を

     業とし 豊臣氏より瓦の用命を蒙る。その養子 宗左衛門、家康に謁し 徳川氏の御用瓦師と

     なる。慶長 元和の役、宗左衛門 大阪にありて城内の情況を関東に報じたる為、その邸宅

     大阪城兵に焼かる。よりて乱後、徳川氏より四万六千坪の地を賜えり」とぞ。

     又、浪花の医師に寺島良安あり、杏林堂と号す。和漢三才図会を著わして名声高し。

6、河内の寺島氏 永禄二年の交野郡五ヶ郷総侍中連名帳に「藤坂村 寺島兵部少輔宗則」とあり。

7.鹿児島の寺島氏 島津藩士に寺島宗則(陶蔵) あり、早く洋学を学び、政権を幕府から朝廷に

     移す必要があることをイギリス公使クラレンドンに説き、イギリス政府の協力をこぎつける。

     維新後も功多く、「電信の父」と言われ、伯爵を賜う。その子を誠一郎と云う。

8、他


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