立   石(タテイシ・タツイシ・タテシ・タテイワ)

解説

筑前国下座郡に立石郷あり、又、若狭国に立石庄あり。その他

岩代、上野、信濃、武蔵、越前、伊勢、豊前、豊後、壱岐などに

この地名あり。

 

国土基本地図に134ヶ所あり。

 

1、大友氏族 豊後国速見郡立石村より起こる。大友系図に

     「大友親能−築井親茂(能直の弟)の庶流に立石氏を収む。」とあり。

2、対馬・壱岐の立石氏 壱岐国壱岐郡に立石村あり。ここより起こるか。

     応永二十六年六月、朝鮮の兵 対馬を攻む。立石氏など これを討ち、大いにこれを破ると

     云う(宗氏家譜)。立石盛昌、立石八郎などあり。

3、漆間姓− −美作国の名族にして、神武天皇々兄稲飯命の裔と称す。その裔 立石太郎左衛門久胤は

     毛利元就に属し、輝元に従い数々戦功あり。慶長十九年十一月二十五日没す。その弟

     兵衛尉久泰は、高野宮正神主たり、始の名 孫市郎と呼ぶ。毛利輝元に属し、天正九年、

     久米郡岩屋城を攻む。毛利家臣 大野主計、加藤兵部などと共に、三十二人の逞兵、城中に

     忍び 火を放ちて攻め 六月九日これを落とす。久胤の子 五郎左衛門久盛は 森左中将忠政に

     仕え、その子 五郎右衛門久吉、その子 五郎右衛門久信、森家断絶の後、松平越後守宣富

     の代、大庄屋を勤むと云う。後裔は、苫田郡二宮村などに存すと云う。

4、武蔵の立石氏 荏原郡の名族にして、新編風土記に

     「下蛇窪村の立石氏は、立石伊賀守の裔なり。子孫民間に下り、北品川の農家となれり。

     云々。先祖は立石伊賀守の子孫 累世当所に住し、隣村、下大崎の農民 清九郎、助之丞

     などは、その支流なりと云い、今でも清九郎は、古文書数通を蔵す」とあり。

5、他


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