谷   岡 (タニオカ)

解説

日向などにこの地名あり。

 

1、佐々木氏族 相模の名族にして、北條家臣 南條右京亮重長の後なり。

     新編風土記 荏原郡條に「祖先は佐々木氏の末葉なり。又、深沢村名主 宇源次も同氏なりしと

     云う。この家に伝わる系図あり。その略に云う、佐々木近江守氏綱の二男 伊賀守義重、その子

     南條山城守重頼と云う。北條家に仕え、その子 南條右京亮重長、これも父と共に、北條氏康

     その孫 氏直に至るまで仕えしが、(重長は後、山城守と改め 又、小谷岡但馬と号し、又、

     山崎但馬、後、谷岡但馬入道宗安と改む。按ずるに北條分限帳に南條右京亮見えたり、即ち

     同人なるべし。されど この人は相州、豆州の内には領地ありしよし載すれど、武州の

     内には見えず。又、品川 妙国寺に蔵する永禄四年文書に、南條飛騨入道と云う人あり。

     この人も一族にや。因みに云う、後、家を継ぎて、父の所領をそのまま賜い、侍大将にて、

     旗奉行を兼ねる云々)、天正十八年七月、小田原没落と共に浪々の身となり、旧領なれば、

     当村へ引き篭り、その頃、名をも変じて山崎但馬と云えり。文禄年中、徳川氏に仕う。されど

     病気により、甥 藤川庄次郎佐将を勧む。その後 重長、病もいえしかば、入道して宗安と

     号せしが、その子 右京亮重継、重継も初めは南條と云いしが、後、山崎と改め、又、

     谷岡太兵衛尉と改めたるなり。これも父と共に、北條氏直の没落の後、深沢の地に引き篭り

     父の命により、その地に伊勢内外宮を移して 社を建て 又、居宅の鬼門に八幡宮を勧請せり

     承応二年十二月二十八日死す。その子 又左衛門重久、その子 又左衛門重将なり」とあり。

     菩提寺を満願寺と云う。

2、丹波の谷岡氏 氷上郡の名族に谷岡伊豆あり。丹波志に

     「谷岡伊豆、子孫 和田具村。野瀬谷の芽野に屋敷跡あり。谷岡と云う、今、これを祭る、

     地神なり」とあり。

3、河内の谷岡氏 永禄二年 交野郡総侍連名帳に「津田村 谷岡兵庫允頼治」とあり。

4、他


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