田   中

解説

諸国にこの地名ありて多数の氏を起こす。

分派氏族

 

1,藤原姓− −河内国茨田郡枚方村の名族にして、和銅年間より鍋釜鋳造を業とせし

       と云う。近衛天皇の時、藤原姓を賜うと称す。

       又、交野郡に存し、五ヶ郷総侍中連名帳に「津田村田中内記房高、芝村

       田中六助重孝」等を挙げ、又、ェ永三宮着座覚に、「津田村 田中氏

       十四軒、尊延寺村 田中氏三軒」等あり。

       又、同郡 渚村の名族に田中佐兵衛、田中覚兵衛ありて、田中庵を建つ。

       又、渋川郡の田中源七は、尼ヶ崎屋庄兵衛と共にェ永五年 金岡新田を開く。

       又、大縣郡(錦部郡)法善寺の人 田中楠之助祐信(兵左衛門の子)は、

       幕末 勤王の士なり。

2,和泉の新田氏族 上野新田郡田中村より起こると云う。元亀年間、遠江守

       重景(清右衛門)は、助松村を領し、天正四年五月、信長の石山城を攻

       めるの際、隣豪間部主馬兵衛と共に、佐久間信盛に属し、同年七月、

       大阪川口に戦死す。子孫 大庄屋たり。その裔、角右衛門重信の長子

       田中矩方は、勤王の志深く、文久三年、天誅組に属せしも、多井二郎と

       改名して、身を全うすとぞ。

       又、日根郡澤城(濱の城、南近義村澤)は、根来衆徒の属城にして、

       天正十三年、田中加足 拠る。秀吉南征の際、中村一氏の為に陥らる。

3,摂津の田中氏 安永五年、田中又兵衛は、西成郡田中新田を開くと云い、

       島下郡の田中常愚は山田下村似禅寺を開基し、三代 安左衛門は同寺を

       再建すと。

       又、神戸の名族 田中氏は俵屋と云う。諸大名の御用を勤め、生田神社

       の種々の献納をなせりとあり。

       又、高槻の御蔵奉行に「田中一郎右衛門−兵左衛門 云々」と。

4,紀姓 山城国屈指の大族にして、石清水祠官系図に「頼清(二十三代別当、

       常磐)−光清−勝清−慶清(号 田中、文治三年入滅)−道勝−宗清

       −行清−守清−堯清−陶清−定清−常清−融清−芳清−生清−奏清

       −兄清−教清−長清−秀清−敬清(ェ永滅)−邵清−要清−宗清−久清

       −正清−養清−由清−農清−修清−昇清」なりと。

5,佐々木氏族愛知氏流 近江発祥の豪族なり。当国高島郡に田中の庄あり。

       又、野州郡に田中の庄、而して、佐々木系図に「愛智四郎大夫家行の子

       山崎次郎憲家(号 田中入道、建久元年云々)−定家−広家−重家」とあり。

6,佐々木氏族高島流 前項 高島郡の田中の庄より起こる。尊卑分脈に

      「佐々木信綱−高島高信−左衛門尉頼綱−出雲守氏綱(号 田中)−冬綱

      −頼冬」、又「高信の弟(京極流)・氏信−信賀(号 田中)−洪賀」と。

      また、温故録には「佐々木十一代の屋形・信綱の二男を高島郡司とし、

      田中に住し、次郎信高と云う。その後、代々田中家相続す」と。

7,佐々木氏族京極流 佐々木系図に「京極長門守 高吉−丹後守 高知−満吉(

      田中三左衛門)−高稙−高久に至り、京極に復す」とあり。家紋、四目結、

      五三桐、十六葉菊、二引龍。

8,高階姓高氏流 これも近江の豪族にして、高島郡田中の庄より起こる。尊卑

      分脈及び高階氏系図に「高 新五郎惟真−惟範−惟業(田中左衛門)」と

      見え、輿地誌略に「当郡上寺城(上寺村・山城也)は、田中播磨守 実氏

      の居城なり。高島七頭の一員たり。この城を上の城と号し、南市村のを

      下の城と称す。実氏は、高階筑前守 惟範の九男 田中十郎惟業の二男

      二郎惟氏の末葉にして代々この地に住し田中庄を領して、田中氏と称せり。

      秀吉公の五奉行 田中兵部太輔 吉政と云えるは、この実氏の子なり」と。

9,橘姓 これも高島郡田中村より起こる。前項吉政の家なれど、家譜には橘氏

      と称し、「高島郡田中に住し、伯耆守 嵩弘の時より田中を称号とす。

      その男 重政なり」と云う。但し、浅井系図には「先祖、田中伯耆守 政弘、

      河内国田中村に住す。その九代を宗兼と云う」とあり。

      伯耆守 宗弘の孫、総左衛門 重政の子・吉政、秀吉に仕え十万石を領す。

      関ケ原の役に東軍に従い、筑後柳川三十二万石を領す。ェ政系譜に

  「惣左衛門重政−筑後守 吉政(初め長政)−忠政┬某
                         └吉興=吉官(定官)−大隅守 定格(定房)┐
     ┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
     └出羽守定員−定安」と。家紋、左三巴、七九桐。

   *江戸時代前は各系図によって多少、名前が違う場合有り。又、昔の人は、名前

    を三つ前後持っている場合有り。

   *吉興は、忠政の兄とも、吉政の弟とも、両説有り。 

10,田中庄司 − − 近江国野洲郡に田中庄司屋敷(播磨田村)あり、一町四方、相伝う「中世

           田中庄司と号せる佐々木家の士 居住し、守山、吉身、播磨田、金森、

           市三の宅を領せり」と。

11,近江の田中氏 浅井郡の田中村より起こると云う田中氏もあり。

12,桓武平氏川合氏族 伊賀国の豪族にして、平 信兼の後なりと云う。

               家紋、丸の内に梶の葉

13,度會氏族 外宮祠官にて、二門系図に

   檜垣 常行−春章(元久二年正月十八日薨)┬常春−常朝−光春−行世−常憲
                       └春高−春行−光行−行考

   後世 内宮社家にも存す。

14,伊勢佐々木族 飯南郡波瀬村の名族に田中彦左衛門あり。

       当国 田中氏は、新田族 田中五郎義清の六代孫 田中八郎一豊の裔

       にして、北畠 顕能の幕下に属す。その七代 三右衛門一胤は、

       森忠政に仕えたりと。

15,清和源氏土岐氏族 美濃国池田郡田中村より起こる。土岐系図に

      「土岐六郎頼清−頼忠(池田 頼世)−月海太郎光忠−善康(田中 中務)

       −慶益」と。

16,美濃の田中氏 前項の外、新編志、多芸郡條に、「下笠村古城は、田中喜

       兵衛の居城の跡」と。又、「口ヶ島村に田中彦七宅址あり、子孫 この

       村に住む」と。

       後世、多芸郡榛木村の人、田中道麿は国学者として、名有り。

17,藤原北家貞嗣流 三河の田中氏にして、「藤原貞嗣の流、中納言範光、

       加茂郡菅生村を領す。その後胤 道誉入道崇元に至り、田中を称す。

       その子 五郎右衛門義元(明応の頃)その子彦次郎末広−五郎右衛門

       義綱−義忠」なりと。家紋、横木瓜、三頭左巴、瓜花。

       ェ政系譜には新田氏流に収め「彦次郎−彦次郎義綱−五郎右衛門義忠

       −一郎右衛門忠勝−三郎右衛門勝尹−半右衛門忠理−一郎右衛門勝芳

       −末吉−方親−勝豊−義久−義勝」なり。

18,秀郷流藤原姓の田中氏 −駿河国益頭郡の田中村より起こる。

       今川義元家臣に次郎右衛門正長あり、益頭郡の田中城に拠る。元亀元年、

       甲州勢に乗っ取らる。後に家康に属す。家紋、左三藤巴、釘抜、左藤巴、

       藤丸、八藤。

19,藤原北家井伊氏族 遠江国佐野郡田中村より起こる。井伊系図に

       「井伊次郎左衛門尉 泰直の弟・三郎兵衛直家(田中祖)」と。その子

       兵衛次郎直道(田澤祖)也。

20,遠江の田中氏− 幕臣田中氏は、家伝に、「先祖 遠江国富部田中を領せ

       しにより田中を称す」と云う。その後、戸部氏を称す、新左衛門は、

       今川氏の臣なり、家紋、丸に豎水、丸澤潟、蔦。「勘左衛門重能−左膳

       重興−左膳貞宣−貞幹」なりと。

21,駿河の田中氏 −武蔵豊島郡上渋谷旧家 田中氏は、新編風土記に「先祖 讃岐

       太郎直高、文正年間、駿河国 田中より移住し、文明七年没す」と。

22,清和源氏保田氏族 甲斐国八代郡の田中氏(一宮村国分)は、「保田遠江

       守の孫、越後守 義資の男 義堯、遠州田中城に住して、田中因幡守と号

       す、十五世にして 、八左衛門忠世(一に忠政)に至る。壬午の後、

       幕府に奉仕し老いて国分村に蟄居す」と。

23,清和源氏河内氏族 武田系図に「河内五郎義長の子 光義(田中五郎)」と

       云うもあり。家紋、丸の内に釘抜、丸に鳩酸草。

24,桓武平氏北条氏族 伊豆国田方郡田中村より起こる。北条時行の後にて、

       泰行に至り、田中越中守を称すと云う。

       又、当国 桑原村の豪族に田中内膳あり。

25,相模の田中氏 斑目に文命堤あり、享保中、儒者 田中丘隅右衛門、命を奉

       じて之を築き、以って 酒匂川の氾濫を防ぐ。百姓今に至って、その恵

       に頼ると。

26,桓武平氏三浦氏族 この裔 為継、その子 明親、皆 伊勢 藤堂藩に仕う。

       その子 隼之助 保親は、剣を以って名有り。

27,桓武平氏豊島氏族 江戸幕臣の一にして、豊島四郎武帝の末裔なりと云う。

       家紋、六菱、五三桐、黒餅の内に二六の文字。

       「俊庵玄秀−俊川玄方」など幕府に仕う。

28,桓武平氏秩父氏族 秩父十郎武綱の二男二郎基家の三代 渋谷庄司重国の後

       なりと云う。家紋、右三巴。豊島郡上渋谷にこの氏存す。22項参照

29,清和源氏新田氏族 上野国新田郡田中村より起こる。新田系図に

       「新田義清(田中五郎、上州新田郡田中に住す、墓は田中村長慶寺に

       あり)−重政−重経−経氏−政経、弟 氏政−宗村(延文四年、懐良

       親王に供奉して、鎮西に下向し、同年八月筑後川に於いて討死)、弟

       親経(義貞朝臣に従う)」と。

       又、「田中伊賀守氏政−宗村、弟 政選−政景(大内義弘に属し、内野

       合戦に討死す)−弘政」と。

       次に「政選の弟・親経、その弟・政綱(母と共に上州田中村に蟄居す)

       −時綱(康暦元年、足利氏満より旧領安堵を賜う)−経勝−経世−経忠

       −経久−為勝−為重−為明」と。

       次に為忠の弟「経友−経守−経安−氏行−氏経−経俊−正行−正繁(横

       瀬家に仕え、後 酒井家に仕う)、その弟 正定−正近(下里見村住す)

       −近行−家房」と。子孫、高崎松平氏に仕う。

       又、甘楽郡五家村の名族たり。又、氏行の弟・氏経は、三州牛窪に帰り

       その子 経久は牧野右馬允に仕う。

30,清和源氏岩松氏流 これも同上、新田の田中村発祥という。尊卑分脈に

       「畠山義純−時朝(田中次郎)−時国−満国」と見え、

        又、畠山系図に「岩松義純の子 時朝(田中二郎)」とあり。

   時朝(田中二郎)┬時国−満国−国義
           ├頼国−胤国−頼胤−清胤
           ├泰家―――――┬頼泰−氏泰       
           └明氏−経氏  ├頼阿
                   └朝助┬義郷
                      ├朝宴
                      └頼賀

 

31, 武州新田族 上記の後にて、系図に

       「朝助−義郷−義武−義邦、弟 義守−安郷−義安−但馬守 安泰(武蔵

       荏原郡高輪村に住す、永正十六年没)−安貴−安親、弟 五郎(天正十

       八年、小田原を去りて遠州山名郡大原村に移住す)−清友−正友」と。

       新編風土記、荏原郡條に「田中氏(下高野村)祖先 田中但馬守 安泰は

       新田家の支流なり、民間に下りて当所に住し、この地を開墾して家号を

       高輪屋と呼ぶ、酒を醸するを業とす」と。

       又、「田中氏(同村)、先祖は前の但馬守 安泰より分かれし者にて、

       世々、庄屋を勤めしにェ文元年一旦退役し、ェ延三年旧に復す」とあり。

32,信濃の田中氏 諏訪志料に「その祖は源 義光の孫 田中義資の裔 田中

       出雲守 長宗より出づ」。系図に

    「田中出雲守 長宗−長利−長朝−長秀−長兼−長高−長広−長景−朝澄−朝綱−朝信┐
     ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
     └朝行−朝頼−朝景−朝時−朝政−政仲−政豊(信玄に仕え討死)−定右衛門(武田氏

     滅亡後、帰農)」とあり。

33,多摩の田中氏 新編風土記に「田中和泉守の名見ゆ。かつて小田原北条氏

       に仕えしが、後、大沢村に退隠して、子孫 代々ここに住めりと云う。

       今の名主 富右衛門は、この嫡流にて庶流は今 十七軒に分かれたり」と。

       又、「田中氏(平井村)、先祖某より名主を勤めしかど、元文の頃、

       祖父 重蔵、親族の由緒を継いで千人組みになりて今も勤めり、北条家

       より出せし伝馬定の文書一通、又、伊那、平井、両郷伝馬の文書一通、

       及び塩野勘右衛門が出せし文書一通を蔵せり」と。

34,武蔵の田中氏 足立郡の田中清右衛門は、新田の名族なりと。

       又、秋山村の名族に存し、先祖 明通院を開基すと。

       又、当国の名鍛工に、田中吉政、上野介と称す、関 兼吉の裔なり。

       又、「田中氏(伊予田村)、有章院殿の御代、先祖 田中武右衛門、

       小普請組 丹羽遠江守組にありしが、延享四年 当所の番士に転じ、今

       五代相続せり」と。

35,両毛の田中氏 − −勢田郡峯村の峯城は北条安芸守の家臣 田中大貮の古城なり。

       又、ェ政系譜、新田族の末裔と称する者一氏を載せたり。家紋、鎧蝶、

       石畳、「久左衛門信重−内蔵允重俊−内蔵允信兼」なり。

36,上総安房の田中氏 − −上総国一宮 玉前神社神主に田中氏あり。

       当社は、延喜式、埴生郡に収め、明神大社とす。その後 国の一宮なり。

37,下総の田中氏 − − 新編武蔵風土記 葛飾郡條に「田中修理は、甲州武田家の

       浪客なり、駿河国 田中より、彦澤村に来たり開発す」と。

       又、新編常陸国志に、「田中。本姓は源氏、下総浪人にて、上杉氏に

       仕え、義仁、佐竹へ養子の後、来たり仕う」と。

38,八田氏族 − − 常陸国筑波郡田中庄より起こる。

       知家の七男 知氏、本荘の地頭となり田中氏を称す。

       尊卑分脈に「八田 知家−九郎左衛門尉知氏(号 田中)−知継−時継

       −下総権守宗継−高継(隆継)」と見え、新編国志に、「田中、知家の

       七子 知氏・九郎左衛門尉と称す、田中地頭たり、因って氏となす。

       元久二年、畠山重忠を二俣川に撃つ。三子あり、知継、知胤、知義と

       云う。知継は、右衛門少尉、筑後守になる。四子あり、時綱、家成(宗

       盛)、知泰、朝通(宇都宮上座)と云う。時綱の子 宗継は下総権守に

       任ず、その子 隆継・三郎と称す 」と。隆継は、高 師直に党して、家

       亡び、小田氏、これを併す。

       院雑色田中系図に「隆継の子 隠岐守 継政、院の北面となり、子孫

       雑色」たりと。

39,桓武平氏磐城氏族 − − 磐城の名族にして、磐城系図に「磐崎忠隆(室町中期)

       の子 師行(富田甚五郎、田中は在名)−義秀、弟 基忠(鯨岡)」と

       載せ、仁科岩城系図には、「師行(田中 甚四郎)−師隆−政良(菊田 十

       郎)−家盛−政家」と。

       又、国魂系図には「新田 八郎師行、同 太郎師隆」とあり。

40,桓武平氏相馬氏族 − − これも磐城の名族にして、行方郡(相馬郡)田中村よ

       り起こる。相馬 盛胤の三男 郷胤は、田中次郎と号し、田中城主たりき。

41,石川の田中氏 − − 石川郡東館は、熊野宮にあり、康平の頃、田中兵庫なる者、

       ここに住し、当村を開拓せり、とぞ。

42,会津源姓 − − 新編風土記、河沼郡塔寺村八幡宮條に「神職 戸内信濃。先祖は、

       田中 左衛門尉 源 定重とて、天喜中、伊予守 頼義朝臣に従い、この地

       に来たり、この村に住し、武官を以って、当社の神職となる。元久二年、

       定重七世の孫、兵庫憲重の時、葦名 光盛、命じて 憲重を以って、当家

       社僧の総司とし、三引両の紋と、永楽銭 三百貫文の地を与え、田中氏

       を改めて、戸内と名乗らしめき。憲重の八世の孫を輝光と云う。男子無

       く女子のみあり。時に、葦名因幡前司の二男 初王丸、後に修理亮 宗景

       と云うを養子として、家を継がしむ。今の信濃 尚副は、その十六世の

       孫 なりとぞ。」

       又、河沼郡田中村 館跡は、何れの頃にか、田中兵部少輔 頼任と云う者、

       住せりと云う。

43,猪苗代の田中氏 − −猪苗代に信彦霊社ありて、大老田中三郎兵衛 正玄を祭る。

       この家は伊勢の田中氏、玄義に至り武田氏に仕う。その孫、正玄、会津

       侯に仕え、四千石を領す。その三世の孫、数馬玄与の子、三郎兵衛

       玄宰(玄監)は、大老(老年の賢者)として治績大なり。

       又、会津風土記を重修す。

44,越後の田中氏 − − 北魚沼郡内ヶ巻城(川井村内ヶ巻)は、南北朝の頃、新田

       氏の族、田中大蔵の拠れる所と伝う。

45,越中の田中氏 − − 古くは正倉院文書、天平神護二年、越前国司解 とあり。

46,加賀の田中氏 − − 石川郡に田中藤左衛門あり、天正の頃 熊走塁に拠る。

       又、加賀藩給帳に、「百六十石(紋・丸の内に上羽蝶)田中彦四郎」を

       載せ、又、国学者に田中宗得(一閑叟)あり。

47,若狭の田中氏 − − 当国神明帳に「正五位 田中氏明神」あり、私考に「日笠村

       の老人の曰く、己の里内に田中氏の民 数家あり。その宗家を分かちて、

       後に、上田中と呼べり、遠祖の事は詳ならねど、いと古くより家門を続

       き来れり。さて、その上田中が世々伝えもてる山の麓に、むかし遠祖を

       祭りて建てたり と云い伝えたる神社ありて、田中明神といえるを、

       今は六所大明神と申す。すなわちその上田中氏 世々神事を掌り来れる 。

       と云えり。然れば、その六所大明神と申すが、即ちこの田中氏明神にて、

       その田中が氏の遠祖を祭れる神なる事あきらかなり」と。

       又、「堤村にも田中権現社あり。これらは日笠村より移し祭れるにも

       あらんか」と。

48,丹後の田中氏 − − 丹波郡の名族にして、木積山に田中助八、菊井兵庫頭と共

       に拠りしが、天正十年 陥落し、助八は、長岡の家臣となり、菊井氏は

       切腹せりと。

49,丹波氷上の田中氏− − 氷上郡に田中荘あり、天元三年東寺文書に丹波国田中荘

       と見ゆるものこれにて、田中郷とも云う。この地より起こりしならんと。

       丹波志に「田中志摩守、今 荻野、子孫 氷上村。西に当たり、田の字筋

       遠と云う所に、夫婦と子 三人の墓あり。九代目、今 田中と云う所に、

       本家 与右衛門、分家 新蔵、孫右衛門、共に四家、三輪谷 荻野丹後の

       娘来たり、後 荻野を名乗る 」と。

50,天田の田中氏 − − 丹波天田郡蘆淵城(蘆淵村)は、田中氏の居城にして、

       天正年間 田中佐賀殿あり、家老を高橋と云う。大阪陣に田中十大夫

       あり、この後なりと。

       又、「田中氏、大身村。田中株と云う、庄屋一党、子孫あり、今

       横田株と云う」と。

       又、「田中氏、子孫 奥村、当村根元の家筋、田中氏の子孫 本家庄屋、

       今 田中庄蔵は大家なり、関 貫門あり」と。

       又、「田中太郎兵衛、子孫 前田村、地侍なり、六代目 村の東に古屋敷、

       四方に掘り有り」 と。

51,大江姓 − − これも丹波の田中氏にて、家伝に「姓は大江、氏は秦、後 田中に

       改む」と云う。家紋 五七桐、鳳凰丸。

52,日下部姓 − − 但馬国造の一族にして、日下部系図に「三方江 大夫 清奉の子

       俊清(田中大夫)」とあり。

       又、後世、出石郡香住村の勤王家、田中士徳は、小森正造の子なれど、

       中山家諸大夫 田中氏に養われ、河内介に任ぜらる。

53,因幡の田中氏 − − 吉見氏配下の将に、田中氏あり、その裔に田中善右衛門(巨

       濃郡池谷村)あり。又、邑美郡に田中丈左衛門、又、半棚城士に、この

       氏ありて子孫、八東郡に存す。又、秀吉判書に「田中加兵衛、気多郡府

       中分、反銭五十貫文」など因幡志にあり。

54,石見の田中氏 − −安濃郡神原村神原城主に、田中九郎左衛門尉あり。石見志に

       「清和源氏か、福屋氏家臣、強勇にして二君に仕えずと称す」と。

       又、那賀郡田中城(松山村大字畑)の城主に田中三郎左衛門尉 信連あ

       り、元亀元年、三隅城の守将なりと。

       又、邑智郡君谷村地頭所の地頭所城主 田中龍右衛門などあり。

55,赤松氏族 − − 播磨の名族にして、田中氏系図(美嚢郡別所村石野)に「家紋、

       三所左巴。赤松律師 則祐−氏範(寺松弾正少弼、志方庄 天神山城主)

       −氏勝(田中藤太)−勝則(田中太郎二)−勝家−元勝−康範−重村

       −村宗−義家−重国(天正十四年、大和国郡山 筒井伊賀守 の家臣・筒

       井庄大夫の養子となる。その後、筒井家 退去、文禄四年、播磨美嚢郡

       に帰り、居住、この時より筒井家の家紋・梅の紋を使う)−元重−愛友

       −重愛−政體(五郎左衛門、後、与平治に改名)」とあり。

       又、当国の名医に田中愿中。高砂の俳人に田中府舟あり。

56,美作の田中氏 − − 伝え云う「新田義重 三男 義俊、久安年中、下総田中郷を

       領す。四代孫 義政、江州甲賀山に戦死し、十四代孫、義益、その子

       重任、共に新田義貞に従い、重任の四代孫 重久、応永三十四年、真島

       郡高田庄組村に蟄居し、高田村に移り、高田磧を開墾す。その子 重綱

       より六代 茂秀に至り安養寺再建に付き、一反三畝、及び米 三十石、

       並びに釣り鐘を寄進す。その子 茂徳は、高田庄大庄屋を勤め、郷士に

       列せらる とぞ。子孫 真庭郡勝山、真庭郡一色などにあり。」

       又、神楽尾城主に田中修理大夫、

       又、英田郡川合庄 福本村庄屋 田中林蔵、

       又、「田中信濃−喜四郎−次郎兵衛−長兵衛(海内村 大庄屋)−久大夫」なりと。

       又、久米郡福渡村 田中氏は「森 忠政家臣 田中一胤の後にて、その子

       左馬丞一武、塙 一常、その子 源内一治に至り、森侯国除となり、福渡

       に浪居す。堤宝十一世の道統を継ぎて、門人千余人あり。その子 源之

       進一信は、父 一治没後、剃髪して是切と号し、剣道の傍ら医術を以っ

       て業と為す。その声名高し」と云う。

57,田中宿禰姓 − − 紀伊国那賀郡尾崎村旧家にして、続風土記に、「地士 田中兵

       三郎、家伝に云う、その祖を田中宿禰守政と云う。当村の住なり、荘中

       の八社は、皆、守政の勧請にて、即ちその別当たり。居宅は天正の兵火

       に焼亡すれども、子孫 猶旧地に住して今に至ると云う」とあり。

58,備後の田中氏 − − 山内首藤家 配下の将にて雲井山(高村)城には田中河内、

       滑兵庫など守ると。

       又、御調郡にあり。「田中氏、宮内村。先祖 渋川家人、田中又五郎、

       同家没落の後、又五郎の二子 保右衛門より当村民となる」と云う。

59,海部姓 − − 阿波国海部郡の名族にして、古城記に

       「海部郡分、田中殿、海部朝臣、藤原氏、家紋、丸の中に藤の字」と。

60,土佐の田中氏 − − 土佐軍記に「長曾我部 元親の先手、田中新右衛門 」あり。

       又、香曾我部家臣に、田中 市介あり。

       又、高知藩士に田中光顕あり、維新以来功、甚だ多きを以って伯爵を授

       けらる、その子を 遜と云う。

61,大友氏族 − − 豊後国大野郡田中村より起こる。

       大友系図に「大友能直(鎌倉初期)の子 能職(伊予 河野四郎通信の婿

       となる。藤北、田中の祖)」とあり。

62,藤姓宇都宮氏族 − − 筑後宇都宮系図に「浅浪六左衛門 知尚−知継(田中筑後)、

       弟 知胤(阿那名三郎)、弟 知義(田中三郎)」とありて、子孫

       西牟田氏に仕え、福門村館に拠る。田中大膳入道など著わる。

63,筑後の田中氏 − − 前項の外近世 久留米の人、田中儀左衛門 久重、大覚寺宮

       より近江大掾の称号を賜う。その子 田中久重、実は金子庄左衛門の

       七男、近江大掾の養子となる。

64,肥前藤姓 − − 彼杵郡田中村より起こる。家譜に「その祖 前貞、郡村伏原田中

       に住し、田中郷左衛門と称す。その子 越中前相、萱瀬村に移る。

       文明六年、有馬貴純 入寇の際、忠誠」と。

65,河野族 − − 肥前彼杵の田中より起こる。甲野栄周の子 栄龍(田中 某)、

       郡村今富城下 田中屋敷に住すと。

       又、「正暦五年、大村直澄公に陪従し奉りて、大村に来る、公・賜うに

       萱瀬村の内、田地一丁を以ってす。文明 明応の頃、田中土佐兼利なる

       者ありて、純伊公に奉しす」と云う。

66,杵島松浦 − − 松浦郡に田中城あり。

67,藤原南家相良氏族− −洞然長状に「日州 都城の事云々、家々末葉 田中公長」

       と云い求麻外史に「延文四年、幕府 相良定頼に、日向国北郷領家職を

       賜う、定頼よりて、田中某を遣わして、都城を守らしむ」とあり。

68,薩摩の田中氏 − − 名工を多く出せり。頴娃氏家乘に「工師 田中土佐純員、

       名匠を集めて作る」と。又、綱天神は田中氏に命じ作らしむ。

       又、元禄五年に田中五右衛門見え、

       又、当国住装剣彫工に田中市郎右衛門あり。

69,他


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