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解説 |
諸国にこの地名ありて多数の氏を起こす。 |
分派氏族 |
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1,藤原姓− −河内国茨田郡枚方村の名族にして、和銅年間より鍋釜鋳造を業とせし
と云う。近衛天皇の時、藤原姓を賜うと称す。
又、交野郡に存し、五ヶ郷総侍中連名帳に「津田村田中内記房高、芝村
田中六助重孝」等を挙げ、又、ェ永三宮着座覚に、「津田村 田中氏
十四軒、尊延寺村 田中氏三軒」等あり。
又、同郡 渚村の名族に田中佐兵衛、田中覚兵衛ありて、田中庵を建つ。
又、渋川郡の田中源七は、尼ヶ崎屋庄兵衛と共にェ永五年 金岡新田を開く。
又、大縣郡(錦部郡)法善寺の人 田中楠之助祐信(兵左衛門の子)は、
幕末 勤王の士なり。
2,和泉の新田氏族 − − 上野新田郡田中村より起こると云う。元亀年間、遠江守
重景(清右衛門)は、助松村を領し、天正四年五月、信長の石山城を攻
めるの際、隣豪間部主馬兵衛と共に、佐久間信盛に属し、同年七月、
大阪川口に戦死す。子孫 大庄屋たり。その裔、角右衛門重信の長子
田中矩方は、勤王の志深く、文久三年、天誅組に属せしも、多井二郎と
改名して、身を全うすとぞ。
又、日根郡澤城(濱の城、南近義村澤)は、根来衆徒の属城にして、
天正十三年、田中加足 拠る。秀吉南征の際、中村一氏の為に陥らる。
3,摂津の田中氏 − − 安永五年、田中又兵衛は、西成郡田中新田を開くと云い、
島下郡の田中常愚は山田下村似禅寺を開基し、三代 安左衛門は同寺を
再建すと。
又、神戸の名族 田中氏は俵屋と云う。諸大名の御用を勤め、生田神社
の種々の献納をなせりとあり。
又、高槻の御蔵奉行に「田中一郎右衛門−兵左衛門 云々」と。
4,紀姓 −
− 山城国屈指の大族にして、石清水祠官系図に「頼清(二十三代別当、
常磐)−光清−勝清−慶清(号 田中、文治三年入滅)−道勝−宗清
−行清−守清−堯清−陶清−定清−常清−融清−芳清−生清−奏清
−兄清−教清−長清−秀清−敬清(ェ永滅)−邵清−要清−宗清−久清
−正清−養清−由清−農清−修清−昇清」なりと。
5,佐々木氏族愛知氏流 − − 近江発祥の豪族なり。当国高島郡に田中の庄あり。
又、野州郡に田中の庄、而して、佐々木系図に「愛智四郎大夫家行の子
山崎次郎憲家(号 田中入道、建久元年云々)−定家−広家−重家」とあり。
6,佐々木氏族高島流 − − 前項 高島郡の田中の庄より起こる。尊卑分脈に
「佐々木信綱−高島高信−左衛門尉頼綱−出雲守氏綱(号 田中)−冬綱
−頼冬」、又「高信の弟(京極流)・氏信−信賀(号 田中)−洪賀」と。
また、温故録には「佐々木十一代の屋形・信綱の二男を高島郡司とし、
田中に住し、次郎信高と云う。その後、代々田中家相続す」と。
7,佐々木氏族京極流 − − 佐々木系図に「京極長門守 高吉−丹後守
高知−満吉(
田中三左衛門)−高稙−高久に至り、京極に復す」とあり。家紋、四目結、
五三桐、十六葉菊、二引龍。
8,高階姓高氏流 − − これも近江の豪族にして、高島郡田中の庄より起こる。尊卑
分脈及び高階氏系図に「高 新五郎惟真−惟範−惟業(田中左衛門)」と
見え、輿地誌略に「当郡上寺城(上寺村・山城也)は、田中播磨守
実氏
の居城なり。高島七頭の一員たり。この城を上の城と号し、南市村のを
下の城と称す。実氏は、高階筑前守 惟範の九男 田中十郎惟業の二男
二郎惟氏の末葉にして代々この地に住し田中庄を領して、田中氏と称せり。
秀吉公の五奉行 田中兵部太輔 吉政と云えるは、この実氏の子なり」と。
9,橘姓 −
− これも高島郡田中村より起こる。前項吉政の家なれど、家譜には橘氏
と称し、「高島郡田中に住し、伯耆守 嵩弘の時より田中を称号とす。
その男 重政なり」と云う。但し、浅井系図には「先祖、田中伯耆守 政弘、
河内国田中村に住す。その九代を宗兼と云う」とあり。
伯耆守 宗弘の孫、総左衛門 重政の子・吉政、秀吉に仕え十万石を領す。
関ケ原の役に東軍に従い、筑後柳川三十二万石を領す。ェ政系譜に
「惣左衛門重政−筑後守 吉政(初め長政)−忠政┬某 |
*江戸時代前は各系図によって多少、名前が違う場合有り。又、昔の人は、名前
を三つ前後持っている場合有り。
*吉興は、忠政の兄とも、吉政の弟とも、両説有り。
10,田中庄司 − − 近江国野洲郡に田中庄司屋敷(播磨田村)あり、一町四方、相伝う「中世
田中庄司と号せる佐々木家の士 居住し、守山、吉身、播磨田、金森、
市三の宅を領せり」と。
11,近江の田中氏 − − 浅井郡の田中村より起こると云う田中氏もあり。
12,桓武平氏川合氏族 − − 伊賀国の豪族にして、平 信兼の後なりと云う。
家紋、丸の内に梶の葉
13,度會氏族 − − 外宮祠官にて、二門系図に
檜垣 常行−春章(元久二年正月十八日薨)┬常春−常朝−光春−行世−常憲 |
後世 内宮社家にも存す。
14,伊勢佐々木族 − − 飯南郡波瀬村の名族に田中彦左衛門あり。
当国 田中氏は、新田族 田中五郎義清の六代孫 田中八郎一豊の裔
にして、北畠 顕能の幕下に属す。その七代 三右衛門一胤は、
森忠政に仕えたりと。
15,清和源氏土岐氏族 − − 美濃国池田郡田中村より起こる。土岐系図に
「土岐六郎頼清−頼忠(池田 頼世)−月海太郎光忠−善康(田中 中務)
−慶益」と。
16,美濃の田中氏 − − 前項の外、新編志、多芸郡條に、「下笠村古城は、田中喜
兵衛の居城の跡」と。又、「口ヶ島村に田中彦七宅址あり、子孫
この
村に住む」と。
後世、多芸郡榛木村の人、田中道麿は国学者として、名有り。
17,藤原北家貞嗣流 − − 三河の田中氏にして、「藤原貞嗣の流、中納言範光、
加茂郡菅生村を領す。その後胤 道誉入道崇元に至り、田中を称す。
その子 五郎右衛門義元(明応の頃)その子彦次郎末広−五郎右衛門
義綱−義忠」なりと。家紋、横木瓜、三頭左巴、瓜花。
ェ政系譜には新田氏流に収め「彦次郎−彦次郎義綱−五郎右衛門義忠
−一郎右衛門忠勝−三郎右衛門勝尹−半右衛門忠理−一郎右衛門勝芳
−末吉−方親−勝豊−義久−義勝」なり。
18,秀郷流藤原姓の田中氏 − −駿河国益頭郡の田中村より起こる。
今川義元家臣に次郎右衛門正長あり、益頭郡の田中城に拠る。元亀元年、
甲州勢に乗っ取らる。後に家康に属す。家紋、左三藤巴、釘抜、左藤巴、
藤丸、八藤。
19,藤原北家井伊氏族 − − 遠江国佐野郡田中村より起こる。井伊系図に
「井伊次郎左衛門尉 泰直の弟・三郎兵衛直家(田中祖)」と。その子
兵衛次郎直道(田澤祖)也。
20,遠江の田中氏− − 幕臣田中氏は、家伝に、「先祖 遠江国富部田中を領せ
しにより田中を称す」と云う。その後、戸部氏を称す、新左衛門は、
今川氏の臣なり、家紋、丸に豎水、丸澤潟、蔦。「勘左衛門重能−左膳
重興−左膳貞宣−貞幹」なりと。
21,駿河の田中氏 − −武蔵豊島郡上渋谷旧家 田中氏は、新編風土記に「先祖 讃岐
太郎直高、文正年間、駿河国 田中より移住し、文明七年没す」と。
22,清和源氏保田氏族 − − 甲斐国八代郡の田中氏(一宮村国分)は、「保田遠江
守の孫、越後守 義資の男 義堯、遠州田中城に住して、田中因幡守と号
す、十五世にして 、八左衛門忠世(一に忠政)に至る。壬午の後、
幕府に奉仕し老いて国分村に蟄居す」と。
23,清和源氏河内氏族 − − 武田系図に「河内五郎義長の子 光義(田中五郎)」と
云うもあり。家紋、丸の内に釘抜、丸に鳩酸草。
24,桓武平氏北条氏族 − − 伊豆国田方郡田中村より起こる。北条時行の後にて、
泰行に至り、田中越中守を称すと云う。
又、当国 桑原村の豪族に田中内膳あり。
25,相模の田中氏 − − 斑目に文命堤あり、享保中、儒者 田中丘隅右衛門、命を奉
じて之を築き、以って 酒匂川の氾濫を防ぐ。百姓今に至って、その恵
に頼ると。
26,桓武平氏三浦氏族 − − この裔 為継、その子
明親、皆 伊勢
藤堂藩に仕う。
その子 隼之助 保親は、剣を以って名有り。
27,桓武平氏豊島氏族 − − 江戸幕臣の一にして、豊島四郎武帝の末裔なりと云う。
家紋、六菱、五三桐、黒餅の内に二六の文字。
「俊庵玄秀−俊川玄方」など幕府に仕う。
28,桓武平氏秩父氏族 − − 秩父十郎武綱の二男二郎基家の三代 渋谷庄司重国の後
なりと云う。家紋、右三巴。豊島郡上渋谷にこの氏存す。22項参照
29,清和源氏新田氏族 − − 上野国新田郡田中村より起こる。新田系図に
「新田義清(田中五郎、上州新田郡田中に住す、墓は田中村長慶寺に
あり)−重政−重経−経氏−政経、弟 氏政−宗村(延文四年、懐良
親王に供奉して、鎮西に下向し、同年八月筑後川に於いて討死)、弟
親経(義貞朝臣に従う)」と。
又、「田中伊賀守氏政−宗村、弟 政選−政景(大内義弘に属し、内野
合戦に討死す)−弘政」と。
次に「政選の弟・親経、その弟・政綱(母と共に上州田中村に蟄居す)
−時綱(康暦元年、足利氏満より旧領安堵を賜う)−経勝−経世−経忠
−経久−為勝−為重−為明」と。
次に為忠の弟「経友−経守−経安−氏行−氏経−経俊−正行−正繁(横
瀬家に仕え、後 酒井家に仕う)、その弟 正定−正近(下里見村住す)
−近行−家房」と。子孫、高崎松平氏に仕う。
又、甘楽郡五家村の名族たり。又、氏行の弟・氏経は、三州牛窪に帰り
その子 経久は牧野右馬允に仕う。
30,清和源氏岩松氏流 − − これも同上、新田の田中村発祥という。尊卑分脈に
「畠山義純−時朝(田中次郎)−時国−満国」と見え、
又、畠山系図に「岩松義純の子 時朝(田中二郎)」とあり。
時朝(田中二郎)┬時国−満国−国義 |
31, 武州新田族
− −
上記の後にて、系図に
「朝助−義郷−義武−義邦、弟 義守−安郷−義安−但馬守 安泰(武蔵
荏原郡高輪村に住す、永正十六年没)−安貴−安親、弟 五郎(天正十
八年、小田原を去りて遠州山名郡大原村に移住す)−清友−正友」と。
新編風土記、荏原郡條に「田中氏(下高野村)祖先 田中但馬守 安泰は
新田家の支流なり、民間に下りて当所に住し、この地を開墾して家号を
高輪屋と呼ぶ、酒を醸するを業とす」と。
又、「田中氏(同村)、先祖は前の但馬守 安泰より分かれし者にて、
世々、庄屋を勤めしにェ文元年一旦退役し、ェ延三年旧に復す」とあり。
32,信濃の田中氏 − − 諏訪志料に「その祖は源 義光の孫
田中義資の裔 田中
出雲守 長宗より出づ」。系図に
「田中出雲守 長宗−長利−長朝−長秀−長兼−長高−長広−長景−朝澄−朝綱−朝信┐
┌―――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
└朝行−朝頼−朝景−朝時−朝政−政仲−政豊(信玄に仕え討死)−定右衛門(武田氏
滅亡後、帰農)」とあり。
33,多摩の田中氏 − − 新編風土記に「田中和泉守の名見ゆ。かつて小田原北条氏
に仕えしが、後、大沢村に退隠して、子孫 代々ここに住めりと云う。
今の名主 富右衛門は、この嫡流にて庶流は今 十七軒に分かれたり」と。
又、「田中氏(平井村)、先祖某より名主を勤めしかど、元文の頃、
祖父 重蔵、親族の由緒を継いで千人組みになりて今も勤めり、北条家
より出せし伝馬定の文書一通、又、伊那、平井、両郷伝馬の文書一通、
及び塩野勘右衛門が出せし文書一通を蔵せり」と。
34,武蔵の田中氏 − − 足立郡の田中清右衛門は、新田の名族なりと。
又、秋山村の名族に存し、先祖 明通院を開基すと。
又、当国の名鍛工に、田中吉政、上野介と称す、関 兼吉の裔なり。
又、「田中氏(伊予田村)、有章院殿の御代、先祖 田中武右衛門、
小普請組 丹羽遠江守組にありしが、延享四年 当所の番士に転じ、今
五代相続せり」と。
35,両毛の田中氏 − −勢田郡峯村の峯城は北条安芸守の家臣 田中大貮の古城なり。
又、ェ政系譜、新田族の末裔と称する者一氏を載せたり。家紋、鎧蝶、
石畳、「久左衛門信重−内蔵允重俊−内蔵允信兼」なり。
36,上総安房の田中氏 − −上総国一宮 玉前神社神主に田中氏あり。
当社は、延喜式、埴生郡に収め、明神大社とす。その後 国の一宮なり。
37,下総の田中氏 − − 新編武蔵風土記 葛飾郡條に「田中修理は、甲州武田家の
浪客なり、駿河国 田中より、彦澤村に来たり開発す」と。
又、新編常陸国志に、「田中。本姓は源氏、下総浪人にて、上杉氏に
仕え、義仁、佐竹へ養子の後、来たり仕う」と。
38,八田氏族 − − 常陸国筑波郡田中庄より起こる。
知家の七男 知氏、本荘の地頭となり田中氏を称す。
尊卑分脈に「八田 知家−九郎左衛門尉知氏(号 田中)−知継−時継
−下総権守宗継−高継(隆継)」と見え、新編国志に、「田中、知家の
七子 知氏・九郎左衛門尉と称す、田中地頭たり、因って氏となす。
元久二年、畠山重忠を二俣川に撃つ。三子あり、知継、知胤、知義と
云う。知継は、右衛門少尉、筑後守になる。四子あり、時綱、家成(宗
盛)、知泰、朝通(宇都宮上座)と云う。時綱の子 宗継は下総権守に
任ず、その子 隆継・三郎と称す 」と。隆継は、高 師直に党して、家
亡び、小田氏、これを併す。
院雑色田中系図に「隆継の子 隠岐守 継政、院の北面となり、子孫
雑色」たりと。
39,桓武平氏磐城氏族 − − 磐城の名族にして、磐城系図に「磐崎忠隆(室町中期)
の子 師行(富田甚五郎、田中は在名)−義秀、弟 基忠(鯨岡)」と
載せ、仁科岩城系図には、「師行(田中 甚四郎)−師隆−政良(菊田 十
郎)−家盛−政家」と。
又、国魂系図には「新田 八郎師行、同 太郎師隆」とあり。
40,桓武平氏相馬氏族 − − これも磐城の名族にして、行方郡(相馬郡)田中村よ
り起こる。相馬 盛胤の三男 郷胤は、田中次郎と号し、田中城主たりき。
41,石川の田中氏 − − 石川郡東館は、熊野宮にあり、康平の頃、田中兵庫なる者、
ここに住し、当村を開拓せり、とぞ。
42,会津源姓 − − 新編風土記、河沼郡塔寺村八幡宮條に「神職 戸内信濃。先祖は、
田中 左衛門尉 源 定重とて、天喜中、伊予守 頼義朝臣に従い、この地
に来たり、この村に住し、武官を以って、当社の神職となる。元久二年、
定重七世の孫、兵庫憲重の時、葦名 光盛、命じて 憲重を以って、当家
社僧の総司とし、三引両の紋と、永楽銭 三百貫文の地を与え、田中氏
を改めて、戸内と名乗らしめき。憲重の八世の孫を輝光と云う。男子無
く女子のみあり。時に、葦名因幡前司の二男 初王丸、後に修理亮 宗景
と云うを養子として、家を継がしむ。今の信濃 尚副は、その十六世の
孫 なりとぞ。」
又、河沼郡田中村 館跡は、何れの頃にか、田中兵部少輔 頼任と云う者、
住せりと云う。
43,猪苗代の田中氏 − −猪苗代に信彦霊社ありて、大老田中三郎兵衛 正玄を祭る。
この家は伊勢の田中氏、玄義に至り武田氏に仕う。その孫、正玄、会津
侯に仕え、四千石を領す。その三世の孫、数馬玄与の子、三郎兵衛
玄宰(玄監)は、大老(老年の賢者)として治績大なり。
又、会津風土記を重修す。
44,越後の田中氏 − − 北魚沼郡内ヶ巻城(川井村内ヶ巻)は、南北朝の頃、新田
氏の族、田中大蔵の拠れる所と伝う。
45,越中の田中氏 − − 古くは正倉院文書、天平神護二年、越前国司解 とあり。
46,加賀の田中氏 − − 石川郡に田中藤左衛門あり、天正の頃 熊走塁に拠る。
又、加賀藩給帳に、「百六十石(紋・丸の内に上羽蝶)田中彦四郎」を
載せ、又、国学者に田中宗得(一閑叟)あり。
47,若狭の田中氏 − − 当国神明帳に「正五位 田中氏明神」あり、私考に「日笠村
の老人の曰く、己の里内に田中氏の民 数家あり。その宗家を分かちて、
後に、上田中と呼べり、遠祖の事は詳ならねど、いと古くより家門を続
き来れり。さて、その上田中が世々伝えもてる山の麓に、むかし遠祖を
祭りて建てたり と云い伝えたる神社ありて、田中明神といえるを、
今は六所大明神と申す。すなわちその上田中氏 世々神事を掌り来れる 。
と云えり。然れば、その六所大明神と申すが、即ちこの田中氏明神にて、
その田中が氏の遠祖を祭れる神なる事あきらかなり」と。
又、「堤村にも田中権現社あり。これらは日笠村より移し祭れるにも
あらんか」と。
48,丹後の田中氏 − − 丹波郡の名族にして、木積山に田中助八、菊井兵庫頭と共
に拠りしが、天正十年 陥落し、助八は、長岡の家臣となり、菊井氏は
切腹せりと。
49,丹波氷上の田中氏− − 氷上郡に田中荘あり、天元三年東寺文書に丹波国田中荘
と見ゆるものこれにて、田中郷とも云う。この地より起こりしならんと。
丹波志に「田中志摩守、今 荻野、子孫 氷上村。西に当たり、田の字筋
遠と云う所に、夫婦と子 三人の墓あり。九代目、今 田中と云う所に、
本家 与右衛門、分家 新蔵、孫右衛門、共に四家、三輪谷 荻野丹後の
娘来たり、後 荻野を名乗る 」と。
50,天田の田中氏 − − 丹波天田郡蘆淵城(蘆淵村)は、田中氏の居城にして、
天正年間 田中佐賀殿あり、家老を高橋と云う。大阪陣に田中十大夫
あり、この後なりと。
又、「田中氏、大身村。田中株と云う、庄屋一党、子孫あり、今
横田株と云う」と。
又、「田中氏、子孫 奥村、当村根元の家筋、田中氏の子孫 本家庄屋、
今 田中庄蔵は大家なり、関 貫門あり」と。
又、「田中太郎兵衛、子孫 前田村、地侍なり、六代目 村の東に古屋敷、
四方に掘り有り」 と。
51,大江姓 − − これも丹波の田中氏にて、家伝に「姓は大江、氏は秦、後 田中に
改む」と云う。家紋 五七桐、鳳凰丸。
52,日下部姓 − − 但馬国造の一族にして、日下部系図に「三方江 大夫 清奉の子
俊清(田中大夫)」とあり。
又、後世、出石郡香住村の勤王家、田中士徳は、小森正造の子なれど、
中山家諸大夫 田中氏に養われ、河内介に任ぜらる。
53,因幡の田中氏 − − 吉見氏配下の将に、田中氏あり、その裔に田中善右衛門(巨
濃郡池谷村)あり。又、邑美郡に田中丈左衛門、又、半棚城士に、この
氏ありて子孫、八東郡に存す。又、秀吉判書に「田中加兵衛、気多郡府
中分、反銭五十貫文」など因幡志にあり。
54,石見の田中氏 − −安濃郡神原村神原城主に、田中九郎左衛門尉あり。石見志に
「清和源氏か、福屋氏家臣、強勇にして二君に仕えずと称す」と。
又、那賀郡田中城(松山村大字畑)の城主に田中三郎左衛門尉 信連あ
り、元亀元年、三隅城の守将なりと。
又、邑智郡君谷村地頭所の地頭所城主 田中龍右衛門などあり。
55,赤松氏族 − − 播磨の名族にして、田中氏系図(美嚢郡別所村石野)に「家紋、
三所左巴。赤松律師 則祐−氏範(寺松弾正少弼、志方庄
天神山城主)
−氏勝(田中藤太)−勝則(田中太郎二)−勝家−元勝−康範−重村
−村宗−義家−重国(天正十四年、大和国郡山 筒井伊賀守 の家臣・筒
井庄大夫の養子となる。その後、筒井家 退去、文禄四年、播磨美嚢郡
に帰り、居住、この時より筒井家の家紋・梅の紋を使う)−元重−愛友
−重愛−政體(五郎左衛門、後、与平治に改名)」とあり。
又、当国の名医に田中愿中。高砂の俳人に田中府舟あり。
56,美作の田中氏 − − 伝え云う「新田義重 三男 義俊、久安年中、下総田中郷を
領す。四代孫 義政、江州甲賀山に戦死し、十四代孫、義益、その子
重任、共に新田義貞に従い、重任の四代孫 重久、応永三十四年、真島
郡高田庄組村に蟄居し、高田村に移り、高田磧を開墾す。その子 重綱
より六代 茂秀に至り安養寺再建に付き、一反三畝、及び米 三十石、
並びに釣り鐘を寄進す。その子 茂徳は、高田庄大庄屋を勤め、郷士に
列せらる とぞ。子孫 真庭郡勝山、真庭郡一色などにあり。」
又、神楽尾城主に田中修理大夫、
又、英田郡川合庄 福本村庄屋 田中林蔵、
又、「田中信濃−喜四郎−次郎兵衛−長兵衛(海内村 大庄屋)−久大夫」なりと。
又、久米郡福渡村 田中氏は「森 忠政家臣 田中一胤の後にて、その子
左馬丞一武、塙 一常、その子 源内一治に至り、森侯国除となり、福渡
に浪居す。堤宝十一世の道統を継ぎて、門人千余人あり。その子 源之
進一信は、父 一治没後、剃髪して是切と号し、剣道の傍ら医術を以っ
て業と為す。その声名高し」と云う。
57,田中宿禰姓 − − 紀伊国那賀郡尾崎村旧家にして、続風土記に、「地士 田中兵
三郎、家伝に云う、その祖を田中宿禰守政と云う。当村の住なり、荘中
の八社は、皆、守政の勧請にて、即ちその別当たり。居宅は天正の兵火
に焼亡すれども、子孫 猶旧地に住して今に至ると云う」とあり。
58,備後の田中氏 − − 山内首藤家 配下の将にて雲井山(高村)城には田中河内、
滑兵庫など守ると。
又、御調郡にあり。「田中氏、宮内村。先祖 渋川家人、田中又五郎、
同家没落の後、又五郎の二子 保右衛門より当村民となる」と云う。
59,海部姓 − − 阿波国海部郡の名族にして、古城記に
「海部郡分、田中殿、海部朝臣、藤原氏、家紋、丸の中に藤の字」と。
60,土佐の田中氏 − − 土佐軍記に「長曾我部 元親の先手、田中新右衛門 」あり。
又、香曾我部家臣に、田中 市介あり。
又、高知藩士に田中光顕あり、維新以来功、甚だ多きを以って伯爵を授
けらる、その子を 遜と云う。
61,大友氏族 − − 豊後国大野郡田中村より起こる。
大友系図に「大友能直(鎌倉初期)の子 能職(伊予 河野四郎通信の婿
となる。藤北、田中の祖)」とあり。
62,藤姓宇都宮氏族 − − 筑後宇都宮系図に「浅浪六左衛門 知尚−知継(田中筑後)、
弟 知胤(阿那名三郎)、弟 知義(田中三郎)」とありて、子孫
西牟田氏に仕え、福門村館に拠る。田中大膳入道など著わる。
63,筑後の田中氏 − − 前項の外近世 久留米の人、田中儀左衛門 久重、大覚寺宮
より近江大掾の称号を賜う。その子 田中久重、実は金子庄左衛門の
七男、近江大掾の養子となる。
64,肥前藤姓 − − 彼杵郡田中村より起こる。家譜に「その祖 前貞、郡村伏原田中
に住し、田中郷左衛門と称す。その子 越中前相、萱瀬村に移る。
文明六年、有馬貴純 入寇の際、忠誠」と。
65,河野族 − − 肥前彼杵の田中より起こる。甲野栄周の子 栄龍(田中 某)、
郡村今富城下 田中屋敷に住すと。
又、「正暦五年、大村直澄公に陪従し奉りて、大村に来る、公・賜うに
萱瀬村の内、田地一丁を以ってす。文明 明応の頃、田中土佐兼利なる
者ありて、純伊公に奉しす」と云う。
66,杵島松浦 − − 松浦郡に田中城あり。
67,藤原南家相良氏族− −洞然長状に「日州 都城の事云々、家々末葉 田中公長」
と云い求麻外史に「延文四年、幕府 相良定頼に、日向国北郷領家職を
賜う、定頼よりて、田中某を遣わして、都城を守らしむ」とあり。
68,薩摩の田中氏 − − 名工を多く出せり。頴娃氏家乘に「工師 田中土佐純員、
名匠を集めて作る」と。又、綱天神は田中氏に命じ作らしむ。
又、元禄五年に田中五右衛門見え、
又、当国住装剣彫工に田中市郎右衛門あり。
69,他
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