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田 邊(田辺) |
解説 |
上古以来の大族なり、タナベは タノベの転にて、田部より 出ずと云う。和名抄 丹後国、美作国 日向などに田邊郷あり、 その他 諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす。 |
分派氏族 |
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1,伊賀の田邊氏 − − 壬申の乱に、天武帝、この地に至り給う時、矢川村 田辺某、
夢の告げありて、出迎う。時に春雨頻りに降り、大水漲りて如何とも
する事なし。然るに白鹿 忽然として来たり、帝を乗せ奉りて水を済す。
一統後、勅ありて、春日の神をここに祀り、鹿高明神と称すと伝う。
2,伊勢の田邊氏 − − 度會郡に田邊氏社あり、元々集に「荒木田氏社、荒木田氏の
祖、天御中主尊二十世の孫、天見通命 これ也」と。
又、年中行事に、「件の社は、両所なり。荒木田氏二門は、田辺本社に
参祭、同一門は、小社湯田野社に参祭なり」と。本社は、上田邊村、
小社は、湯田村にあり。
3,三河の田邊氏 − − 宝飯郡の名族にして、二葉松に
「古宿村 古屋敷、田邊隼人(古代)、同名民部太夫」とあり。
4,藤原姓熊野族 − − 甲斐の田邊氏にして、東山梨郡の名族なり。豊城入彦命の
後なる田邊氏より出づるか。家譜に「本国紀州熊野より、永禄中、本州
に来る。その子 佐左衛門なり」と。
又、「熊野別当湛増の男 湛憲、その子 快憲の孤児、丹後田邊に長じ、
田邊左衛門尉当直と称す。その後裔 田邊直基、その子 忠直と共に、
当国に来たり武田家に仕う。忠直の子を佐左衛門忠村と云う。
家紋 丸に十字」と。
5,武蔵の田邊氏 − − 橘樹郡の名族にて、新編風土記に「田邊氏(井田村)、古え
(奥州藤原時代)の金売り吉次の子孫なりと云い伝う。その頃の物とて、
皮籠に入れし旧記を蔵せしが、先年 洪水に流失せり。その他 証しと
すべき物は伝わらず。しばらく住人の伝える所によるのみ」とあり。
6,岩代の熊野族 − − 新編会津風土記、耶麻郡新井田村條に「館跡、建仁三年、
田辺右衛門義秀築けり」と云い「旧家 田辺新左衛門。この村の庄屋
なり。先祖を右衛門義秀と云う。熊野別当湛増の支族にて、寿永年中、
源平の戦いに源義経の麾下に従う。
義秀、八島の合戦に功あり、建仁元年、この国に来たり耶麻郡猪苗代に
住し、同三年ここに来たり住す。その裔孫、五郎左衛門秀将と云う者、
天正十四年、故ありて所領を失い、新左衛門に至る迄の世次、詳かなら
ず」とあり。
又、耶麻郡五十間新田村條に「加藤氏の時、ェ永十五年、猪苗代の城を
守らしめん為、足軽五十三人を抱え、新在家村境内を給わり墾田とし、
田辺仁右衛門と云う物頭を置く」とあり。
又、河沼郡淵走村條に「旧家、田辺市郎右衛門、この村の庄屋なり。
先祖は、桃井綱千代と云う。武田信玄に仕え、信濃国桃井と云う所に住
せしと云う。如何なる故あって、この村に来たり住せしか、詳ならず」と。
7,仙台の田邊氏 − − 伊達藩士にこの氏あり、希賢の子 晋齋(希文)は、学名高く、翠渓先生と呼ばれ
世臣伝、封内風土記は その著書なり。その子 希元、その子 希続なり。
8,丹波の田邊氏− −氷上郡にありて 丹波志に「田邊氏、子孫 石生村、先祖 地侍にて
鳳朝寺の東山手に住す」とあり。
9,加賀の田邊氏 − − 加賀藩給帳に「四百石(紋、抱柏)田邊忠左衛門、三百三十石(丸の内に二引)田邊英三郎、
三百石(角切角の内二引)田邊長太郎、三百石(丸の内に二引)田邊判平、三百石(丸の内に釘貫)田邊千之助、
二百石(丸の内に並鷹羽)田邊喜八郎、百七十石(瓜の内に違い丁子)田邊茂太郎、百二十石(瓜の内に
違い丁子)田邊浅右衛門、二百五十石(丸の内に二引)、田邊五左衛門、百十石 (丸の内に松皮菱)田邊孫助」とあり。
10,丹後の田邊氏 − − 当国に田邊荘あり、又、加佐郡に田邊郷あり、この地名を名乗りしもあらん。
島津国史に「島津忠氏、貞和元年に丹後田邊荘の地頭職に補せらる」とあり。
又、田邊流 槍術の祖 田邊八左衛門は、田邊城主の裔と云う、尾張の 徳川義直に仕う。
11,伯耆の田邊氏− − 日野郡の大社楽々福神社禰宜にこの氏ありて、祭神遠征陪従の子孫と云う。
又、中野三体妙見宮の旧神主 田邊氏は、旧姓 菅野、甚大夫繁高の娘、
田辺美作守信秀(毛利家臣 妙見山城主)の妾となり、信豊を生む。これ
当家の祖にて、これより田辺となると(伯耆志)。
12,藤原北家 − − 紀伊国牟婁郡田邊村より起こる。熊野別当家にして、源平時代に田邊別当湛増あり、
平家物語に「田邊の湛増、教真の五男」と。
続風土記、牟婁郡湊村條に「新熊野闘鶏権現社社伝に、熊野別当湛快の時、湛快は、藤原実方朝臣の
裔、熊野別当泰救の曾孫と云う。三所権現をこの地に勧請す。湛快の子を湛増と云う。始めて
当所に住居す。人呼びて田邊別当と云う」とあり。
13,紀姓 − − 紀伊国熊野の田邊発祥にて、家譜に「紀氏にて、長谷雄の三男 淑信より連綿す。その二十一代の孫
宗衡、宗衡の男 越前守真、武田信虎、信玄に仕う。守真の子 佐渡守重真−清右衛門安直−惣十郎良栄−良龍、
家紋、四本骨扇に八の字、五本骨扇に根松」と。
14,橘姓 − − 橘諸兄の曾孫 氏公の裔 嗣光、紀州田邊の城主となり、田邊を氏とすと云う。
15,幕臣藤原姓 − − ェ政系譜に
「忠左衛門信興−九兵衛信勝−信増、家紋 四本骨扇に八文字、三輪違」と。
16,美作の田邊氏 − − 和名抄、当国苫西郡に田邊郷あり、この地より起りしもあらん。
東作志に田邊平兵衛あり。
17,備後の田邊氏 − − 奴可郡の名族にして芸藩通志に「西城町 田邊氏。先祖 田邊弾正少弼兼信は、
紀伊国田邊庄より来り、神石郡古川村に住す。四世 末広は、宮氏に属し、当郡に来りて末渡村に居る。
八世、吉郎兵衛信行、ェ永中、始めて庶人に降り、この地に住す。数世坊長、或いは里正たり。しばしば
賞賜を蒙る。今の正二、他土に出づるに、帯刀し、姓氏を称するを許さる。凡そ 十三世なり。
家に浅井氏の感状を蔵す。また同町に分家のものもあり」と。
18,筑後の田邊氏 − − 高良山社家にして、縁起異本に「御戸開司 田邊兼忠(厨刑当也、諸国草蒭秣等を知る也)」とあり。
19,日向の田邊氏 − − 当国宮崎郡に田邊郷あり、この地より起りしもあらん。
20,播磨の田邊氏 − − 家伝史料に「其元様 御先祖の義、様子問い合わせ候へば、
田邊源四郎殿と申す人に御座候て、本田美濃守様御代、姫路に召し出され、御奉公御勤めなされ候、
相聞こえ申し候。源四郎殿 御舎兄は田邊孫四郎殿と申す人の後、只今、多可郡黒田村に百姓を
相勤め居り申され候、相知れ申し候」と。
21,他
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