田   村(タムラ)

解説

諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす

分派氏族

 

1,伊勢の田村氏 当国一志郡に田村庄あり。この地名を名乗りしもあらん。

       五鈴遺響に「北畠氏家臣 田村源内左衛門、歴代の墳墓か」とあり。

2,日奉姓西党 武蔵国多摩郡田村より起こる。七党系図に

       「由井宗弘−駄所為貞−駄二知実−弘綱(田村三郎)」と。

       見聞諸家紋に三本並び矢。

3,武蔵の田村氏 新編風土記 多摩郡條に「田村氏。本氏は小林にて、登戸村の

       門徒宗 長念寺の祖先の弟の子孫なりと云う。そのかみは、小田原北条

       氏へ仕えしが、後、修験者となりて、ここに住し萬蔵院と号せり。その

       没せしは、慶長七年二月五日なり、淨慶法師と云う。この地を萬蔵島と

       号するも、この人居住せし故なり」と。

       又、秩父郡にも田村郷ありて、新編風土記に「(田村郷)屋敷跡、円福

       寺の前なる大門平にあり、村民伝えて、田村権守なる者居住せし所なり

       と云う。事跡 詳かならず、二十年前までは、土手の形などありしが、

       里民いつとなく崩して、今は数項の陸田となし僅かに一 二間を残して、

       そこに稲荷の小祠を立てり」と。

4,丹波姓− 医道家 丹波康頼の裔にして、その二代の孫 成雅−道雅−仲政−道広

       の後と云い、又、田村麿五代の孫 「丹波守国当(田村を称し、その

       二十五代の孫 丹波守吉良、丹波国に住す)−長秋(宗仙)」なりとも云う。

       ェ政系譜に「長元(千本典薬)−長清−宗圓−長久−長慶−長昌−宗仙

       (長秋、安栖軒、北条早雲に仕え、関東に降る)−長栄−長伝(安齋、

       北条氏政に仕う、後 家康に仕う)−長願−長有−長真−長伯、家紋 車前草、剣梅鉢」と。

5,常陸の田村氏 当国南野荘に田村郷あり、この地名を名乗りしもあらん。

6,藤姓大友氏族 大友系図に「親能−仲能(陸奥守、田村と号す。姓 藤原、

       鎌倉評定衆、実は北山の一族 親能の養子となる)」と。

       又、室町幕臣にあり。長享 将軍江州動座着到に

       「(近江国) 田村越後守(藤原)、同治部少輔政仲」とあり。

       見聞諸家紋に抱き花杏葉。

7,清和源氏頼親流 清和源氏系図に「満仲−頼親(大和守)−頼基(号 田村冠者)」と。

8,清和源氏義光流 尊卑分脈に「義光−実光−広義(号 田村冠者)」と。

9,清和源氏小笠原氏流 − − 小笠原長経の子 長貞は、田村五郎と称すと云う。

10,上野の田村氏 − − 当国勢多郡に田村郷あり、この地名を名乗りしもあらん。

新田義貞の末男 六郎貞氏の執事に田村氏あり。

又、当国新田郡の田村氏に 右三つ巴を家紋とする田村氏あり。

11,坂上氏族 − − 磐城国田村郡(奥州田村庄)より起り、坂上田村麻呂の後裔と称す。坂上系図に

「坂上田村麻呂−鶴子丸(浄野)−内野−顕麻呂−古哲(始めて田村と称す)−顕谷−平顕

−友顕−忠顕−吉顕−家顕−実顕−長顕−朝顕−行資−兼顕−政顕−則顕−光顕−綱顕

−輝顕(後、輝定、北畠顕家に属す)−家吉」と。

12,長尾氏族 − − 讃岐の田村氏にして、全讃史に「栗隈城(湯船山の上にあり)、又、湯船城と云う。

田村上野親光これに居る、長尾元高の四男なり」とあり。

13,三春の田村氏 伝説に守山城(守山町守山)は、延暦二十年に田村麻呂築き、

       次子 浄野より田村義顕まで居住、義顕、永正元年正月、三春城に移り、

       重臣を置き、天正十七年頃 田村宗顕、九万三千石を領すと云う。

       又、三春の舞鶴城は、永正元年正月、田村義顕 守山城より移りて、

       以来世々居り、田村氏没落の後は、伊達氏の臣 片倉盛重ここに居ると云う。

       又、船引城は、天正十四 五年頃、田村頼顕住すとなり。

14,御代田の田村氏 − − 吉成系図に「田村義顕−隆顕、弟 頼顕(大平居城)、弟 行顕(孫四郎、

御代田城主)−補守(大和守、孫四郎)−政房(矢部太夫、吉成氏を称す)−清信(勘解由兵衛)

−円真(十方院修験始り)」とあり。

15,小野の田村氏 − − 小野城(小野新町)は、田村氏の族 田村顕通住すと云う。また、「小野新町、

田村清忠」と。天正十七年、岩城常隆の為、陥落すとぞ。

老人物語に「小野六郷の城主、新町の田村右馬頭」とあり。

又、仙道表鑑に「梅雪斎顕盛(新町城主)の子 右馬頭清忠」とあり。

16,大平の田村氏 − −大平城(高瀬村大平)は、田村義顕の次子 宮内少輔頼顕住し、その子 常伴に至り、

天正十七年六月、佐竹、二階堂の為に落城と云う。

その系譜に「義顕−隆顕、弟 頼顕(月斎、大平城主、宮内少輔)−常伴(天正十七年六月七日、

佐竹、二階堂の為に落城討死)−信栄(田村甚平、落城後、紀州熊野に入り、三年住す。その頃、

蒲倉大祥院名跡無し、ここにより養子となり院地を大平に移し修験となる)−安栄(大祥院)

−千栄−秀栄−長栄−東栄−喬栄−勝栄−円英」とあり。

17,藤原姓伊達氏族 征夷大将軍 坂上田村麻呂の後裔・宗顕、豊臣氏の世に至り、所領を失う。

その後 嗣子なきを以って、伊達政宗の子 忠宗の三男 宗良相続し、三万石を領す。ェ政系譜に

       田村宗良−建顕=誠顕=泰顕 村顕=村隆=村資=敬顕−邦顕 邦行=通顕=邦栄−崇顕−丕顕、陸中一関 三万石、明治 子爵、家紋 巻龍、車前草、菊、桐、左巴、蝶、剣梅鉢、丸に車前草、竹に雀、丸に三引、九曜。

18,越後の田村氏 − − 鎌倉時代 北條家臣に田村新将監あり。承久以後、魚沼郡大桑原城(三用城)に居ると云う。

19,丹波の田村氏 − − 当国氷上郡の名族にして、丹波志に「田村氏。柏原下町、先祖は秀吉公に仕え、

田村伊太夫と云う。後、ここに来る、浪人なり。又、織田上野介殿に仕えて後、当所に住す」とあり。

20,丹後の田村氏− − 当国熊野郡に田村郷あり、後に田村荘と云う。この地名を名乗りしもあらん。 

正応田数目録に「熊野郡田村荘、田 百二十三町。鹿野荘 田 三十町九段」とあり。

21,貴志姓 − − 紀伊国那賀郡宮村の旧家にして、続風土記に

「六十人地士 田村岸太郎。家伝にその祖を貴志太郎とて、貴志庄を開基し、貴志荘司たり。

康平六年、大和国宇智郡坂部城主 田村蔵人則兼、土蜘蛛退治として、この地に来り、

荘司の娘と通じて一男を生む。長じて荘司の家を継ぎ、田村左近と称す。その後、数代を経て、

元和年中、地士に命ぜられ 代々当村に住す」とあり。

22,淡路の田村氏 津名郡の名族にして、常磐草に「郡家中村は、田村某の

       食邑なりしとぞ。赤松記に、田村能登守と申す人の館は、郡家に有り」と。

       永正の頃には、田村左馬頭春良、弘治の頃には、左馬助盛春、天正の初め修理進村春、

その子 次郎兵衛経春に至り滅亡す。経春 実は、阿波木津城主 篠原自遁の子なり。

23,日奉姓薬師寺氏族 − − 第2項の族にて、阿波の名族なり。故城記に

「名東郡分、田村殿、日奉、家紋、鷹の羽三」とあり。

24,藤原姓(讃岐秦姓)− − 当国香川郡一宮村に田村神社(田村神)あり、延喜式に名神大社に列す。

この氏はこの社家にして、一宮城に拠る。全讃史に

「田村大宮司秦氏 世々ここに居る。毎に香西氏の援兵を為す。或いは云う、田村大宮司は

即ち、中御門藤原家成の裔なりと。この説、妄也。続日本記を按ずるに、讃岐国香川郡の

戸主に秦人部春世ありて、姓を酒部と賜うと。又、姓氏録に『酒部公は、神櫛王の後也』とあり。

然らば即ち、讃岐朝臣の支流たる也。後人、人部の二字を略し、遂に秦氏となり、竟に秦河勝の

裔となす也。蒙なる矣夫」とあり。

25,土佐の田村氏 − − 和名抄、当国香美郡に田村郷を収め、多無良と註す。後、田村庄と云う。

この地名を名乗りしもあらん。

26,秦姓 − − 武内宿禰の子 羽田矢代宿禰の裔、波多朝臣の後と云う。筥崎大宮司 田村家記録に

「箱崎大宮司 田村大和覚。大宮司、兩部神道、箱崎座主弥勒寺支配、田村大和重慶、

波多隼男宿禰十余代の後胤。大宮司正四位秦宿禰遠範、醍醐天皇に仕え、延喜年中、始めて

秦姓を賜い、正四位に叙せらる。これ箱崎大宮司の始祖也。元祖より三十八代、田村大炊守秦宿禰重守、

慶長十九年二月、家督相続仕り候。右継目の御礼相知れず。ェ永元年九月上京、禁裏に仕え、

従五位下に昇進仕り候。三十九代 田村安房守秦宿禰重卿、ェ永年中 家督相続仕り候。但し、

大炊守実子。右私家 四十四代の間、血脈相続仕り候に付、他家養子等御座なく候。格別の社檀故、

往古 私家、社家の総管領仕り候、云々」とあり。

27,幕臣坂上姓 坂上田村麻呂の裔、田村古哲(始めて田村を称す)二十五代孫

       「丹波守吉永(丹波国に住す)−長九郎長秋−安栖長栄−半兵衛直吉−庄左衛門直久−十兵衛直久、

家紋、 車前草(オオバコ)、剣梅鉢」なり。

28,他


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