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解説 |
大和国高市郡に田口邑あり、又 豊後国大野郡に田口郷あり。 その他 諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす。 |
分派氏族 |
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1,摂津の田口氏 − − 能勢郡の名族にこの氏有り、同郡七星城は、初め撰見之館と
呼ぶ。永延元年、源経基の孫 満快の男 満国、築いて居住す。後、建久
元年、田口判官頼基ここに居る。その後裔 義盛、足利氏に従い功あり、
天正七年八月、織田信澄に攻められて陥落す。
2,紀伊の田口氏 − − 当国の名族にして、続風土記、在田郡田殿荘 田口條に
「西方寺、開基は永正年中、同村 田口平大夫の次男 善空なり」と。
又、日高郡財部村條に「六十人地士、田口貞蔵。先祖 窪田隼人佐は、
畠山家に仕え、落城後、豊太閤に仕う。後、在田郡田口村に蟄居し、
元和六年、六十人地士となり、宝暦年中、この地に移る」と。
3,阿波の田口氏 − − 阿波志に「田口成良は、紀姓にて、民部大輔に補せられ、
阿波大輔と称す。寿永の乱に平氏に随従し、又 源氏に降りる。その弟
能遠は、勝浦にて源氏に附属す。その裔孫 天正中、成安に至り、
長曾我部氏に亡ぼさる」と。
4,大友氏族 − − 豊後国の名族にして大野郡の田口郷より起こる。
大友系図に「能直の子 田原泰広、庶流 田口」とあり。
又、九州軍記に「豊後の人 田口玄蕃允」とあり、天文十九年、大友義鑑を殺す。
5,豊前の田口氏 − − 当国宇佐郡の名族にして天文 永禄の頃、田口雅楽允あり。
又、元亀 天正の頃、下毛郡に田口兵部あり。
6,肥前の田口氏 − − 当国高木郡の名族にして、鷺野城主に田口監物あり、戦国時代 有馬氏に属す。
7,筑後の田口氏 − − 三瀦郡田口村の名族にして、田口刑部は、西田口城に拠る。
8,備中の田口氏 − − 元弘の頃、日野中納言資朝の代官に田口又四郎あり、川上郡(下道郡)穴門郷を領す。
又、元弘の役、田口藤九郎盛兼は、北條方の樺山資久と京都に戦い 負傷すと云う。
9,美作の田口氏 − − 笠庭寺記に「東北條郡北高田庄(銀二十両)、田口光益」とあり。
伝説によれば、蘇我蝙蝠臣の末、田口朝臣房富の二十一世孫 田口重如、当国苫田郡を領して
田野村の瑞雲山を建立す。その子 光益、大和国高市郡を領し、その子 左衛門尉光政、
小吉野庄を領して北高田に城を築く。又、田野村に田口山引乗寺(正明寺)を建立す。
建武以来 山名時氏に属して美作国を平定し、応永二年三月七日卒。光政の子 紀重藤は、
正平十七年、備中松山城を攻めて、庄蔵人を討伐せし巧により、勝南郡南分吉留村を領し、
光政の二男 忠光は 父の跡を継ぎ、北高田に居城す。忠光五世の孫 田口彦兵衛光正に至り、
大内義興を助け、その子 志右衛門尉重光は、尼子晴久に属し、天文年中 各地に転戦し、後、
毛利氏に属して、宇喜多勢と戦う。その後、大蔵甚兵衛尚治と謀りて、志戸部の出兵をつぶす。
その子 藤左衛門益重に至り、天正七年、神楽尾落城して、宇喜多氏に降ると云う。
東作志に「勝南郡公文庄重藤村 庄屋 田口庄七」とあり。
10,美濃の田口氏− −田口村より起こる。新撰志に「城址は、同村 船野山にありて、
天文の頃、遠藤但馬守慶隆の従士 田口某、蟹沢某などの居城の後なり」と。
又、恵那郡遠山庄 付知村の名族に田口氏あり。濃陽志略に
「その先を遠山玄蕃と云う、嘗て青白色の馬を飼う 云々。玄蕃の子孫
今にこれあり」と。
11,信濃の田口氏 − − 当国佐久郡に田口村あり、タノグチにして、田野口城(田口村)は、
享禄 天文の頃、田口左近将監長能 居城す。
12,藤原姓 − − 甲斐発祥にして、粟田口の裔なり。家紋、菱の内花菱、三巴。
ェ政系譜に「八郎右衛門照房(勝之助)−喜古」と。
13,武蔵の田口氏− −新編風土記 葛飾郡條に「田口氏(下平井村)、今の源右衛門
の先祖なり、その人となり、剛力にて、性 漁猟を好み網うつ事に長じ、
熊手縄の長きを遣うをもって、世に賞せらる。ェ永五年、家光
この辺
御遊歴の時、彼の漁猟を上覧あり、殊に御輿に入らせられ、、お側近く
召させられ、大杯をもて御酒を賜り、そのまま御杯をも賜われるを珍蔵
せり。朱塗にして鶴亀松竹の蒔絵あり。又、いかなる故にや、御褥をも
賜われりと云う。云々。又、鷹を遣う御免状なり、とて蔵すれど、
さにはあらず、みだりに鷹を遣う者を禁ずる為に出されしものなり」と。
14,吉田社田口氏 − − 吉田社末社司 田口若宮権祝従六位 藤原賢寿の系図に
「一品舎人親王家令、藤原某後胤。賢治(天文十一年八月八日死)−賢忠−賢次
−賢重−賢雄−賢光−賢愛−賢親−賢従−賢寿−賢則」と。
15,他
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