(タチバナ)

解説

地名は二字とするの勅によりて、立花、立華、橘樹、橘花、

龍華などの文字を用う。

分派氏族

 

1,橘氏 古代の名家 四姓(源平藤橘)の一つ。敏達天皇の曾孫 美奴王と結婚した県犬養三千代が

708年 橘宿禰の姓を賜り、731年その子 葛城王も臣籍に降下して橘諸兄と称す。

諸兄の子 奈良麿が反乱を起こして、一時衰えたが 、平安前期に嵯峨天皇の皇后を出して、

再興。教育施設 学館院は有名。 尊卑分脈に

  美奴王
   ├―――――――――――
諸兄−奈良麿┬島田麿――┬真材−峰範−広相┬公材−好古┬為政−行資−成経−兼遠−盛仲−正遠(楠木氏へと云う説あり)
橘宿禰三千代(県犬養東人女)       ├清友   ├長谷雄     └義子   └敏政┬則光−則長−則季−清信−清則−清成
                     └安麿   ├当主     (宇多天皇妃)   └則隆−成任−以綱−広房−以長−以政−以経−以良−以隆−以材−以季−以基−以盛−以量=以緒
                           └常子
                          (桓武帝妃)

*読史備要(東大資料編纂所発行)にも 楠氏は、正遠の後となっている、が 最近の研究で異説あり。

2,広仲流 −以良の弟 広仲に始まる。系図は

       広仲(信濃守)−親長−邦長−邦康(但馬守)−邦良(三河守、但馬守)┐
       ┌――――――――――――――――――――――――――――――――┘
       └邦方(尾張守、三河守)−邦量。

3,以実流 −広仲の弟 以実に始まる。系図は

       以実(判官代)=知宣(若狭守)−知仲−知茂(伊予守)−知嗣(正平五年六月卒)┐
       ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
       └知顕−知任(木工頭)−知繁(昇殿、木工頭)−知季(昇殿、作所奉行)−知興(昇殿、三河守)

4,大和の橘氏 当国高市郡に橘村、橘寺あり、また、橘本庄あり。古代橘氏のありし地なり。

       又、吉野郡金峰山寺 ェ元二年の古い鐘銘に橘 季兼 あり

5,河内の橘氏 −当国渋川郡に橘荘、若江郡に万葉集の橘島、橘寺あり。

       小鹿島系図に「大納言好古、仁王六十一代 朱雀院の御宇に、朝敵 藤原純友、

追討の勅を蒙りて、天慶四年に伊予国に馳せ向い、純友と戦う。

       純友 討ち負けて筑前国博多津へ逃げ下る。好古 追いつめ抗戦す。純友

       討ち負けて本国へ逃げ帰り、橘 遠保、これを討ち捕う。伊予国を好古に賜い、

河内国を遠保に下さる」と。

       見聞諸家紋に「丸に竪二つ引き」とあり。

*この好古は、小野好古(追補使の長官)との説あり。

6,和泉の橘氏 八木村久米田寺に橘諸兄公の墓と称する塚あり。

7,摂津の橘氏 河辺郡に橘御園荘(七松、水堂、東難波、西難波、別所の諸村)あり。

       又、橘、坂下、清原 三氏あり、元慶四年六月、島上郡川久保諏訪神社を勧請すと伝えられる。

8,伊勢の橘氏 度會郡に橘 神社あり。

       後世、国学者に橘守部あり、本名 北畠源助なり。

9, 中臣姓 − 伝え云う「対馬の橘氏にして、太祝祠神社の旧社家なり。中臣雷大臣の後裔と称す。

当社には、この命の墳墓と伝わるもの残れり。今の社司は財部にて、駿河より来る」とぞ。

10,遠江の橘氏 − 伊予国警固使・橘 遠保、天慶の乱に藤原純友を誅せし功によりて、遠江掾となる、

子孫 在庁官となりて、当国に栄える。遠保の出自は 諸説あり。

11,橘次の系統 小鹿島橘系図に「好古−駿河守敏政−則光−駿河守季通−季綱

−光綱−光長、弟 公光−清元、弟 公盛、弟 公長−公業(橘次)」とあり。

       東鑑 治承四年十二月十九日條に「右馬允橘公長、子息 橘太公忠、橘次公成(公業)を

相具して鎌倉に参着す云々」と。

鎌倉創業の際、右馬允公長、その子 橘太、橘次と共に、源家に属し、功甚だ大にして、

所領を各地に賜い、子孫各地に蔓る。武家にして橘氏と云うは、多くこの族なり。

12,駿河の橘氏 新風土記に「昔、当国の官人に橘の遠茂あり。その父を長田入道と云うとも

見えたり。長田は、有渡郡の地名にて、今も橘氏の人あり、その後裔にや。

又、東鑑に、橘次為茂、富士郡の田所職を賜うと見えたる田所職と云うは、いかなる

職にや。又 宇治拾遺物語に、駿河前司橘季通と云う人の話しも見えたり。時代を

考えるに、この人 遠茂の父にあらずや」と。

13,武蔵の橘氏 当国橘樹郡は、和名抄に太知波奈と註し767年紀に橘樹郡と初見す。

また郡内に橘樹郷あり、多知波奈と訓ず。子母口村 立花社の辺かと云う。

又、多摩郡、足立郡に橘庄あり。

       これらの地名を名乗りしもあらん。

14,上総の橘氏 長柄郡に橘神社あり、又、橘本庄 存す。

       この地名を名乗りしもあらん。

15,下総の橘氏 和名抄、下総国海上郡に橘川郷あり。東鑑文治二年條に

       「下総国橘荘(二位 大納言領)」と。二位とは、四條隆房の事。

       これらの地名を名乗りしもあらん。

16,常陸の橘氏 − − 和名抄、当国茨城郡に橘郷あり。鹿島大禰宜所蔵、承安二年 常陸介高階経仲の

寄進状に「鹿島神領 橘郷」とあり。この地名を名乗りしもあらん。

17,上野の橘氏 − − 当国勢多郡に橘山あり。この地名を名乗りしもあらん。

又、源頼光の四天王 碓氷貞道は、当国碓氷郡の人にて、橘姓と云い、

碓氷荘 太郎橘貞道と碑文にあり。

18,下野の橘氏 − − 江戸幕臣にこの氏あり。芸者の書付に「二百表 十人扶持 医師 橘立庵、

今程、七百石 橘隆庵」とあり。

又「大五郎元常(宗仙院隆安)−元孝(印庵、宗仙院隆庵)−元周」とあり。

家紋、丸に三橘、五七桐。

19,陸前の橘氏 − − 栗原郡の名族にして封内記に「鶯澤村の古塁は、橘遠江の居る所」とあり。

20,陸奥の橘氏 津軽郡中別所村フネン沢古碑に

       「弘安十年八月、紀中納言末孫 橘範綱 敬白」とあり。

21,出羽の橘氏 − − 陸奥話記に「康平五年八月十六日、諸陣を定む。押領使 清原武貞(武則の子)を

一陣となす。橘貞頼(武則の甥、字は志万太郎)を二陣となす。吉彦秀武(武則の甥、又は婿、

字は荒川太郎)を三陣となす。橘頼貞(貞頼の弟、字は新方二郎)を四陣となす。云々」とあり。

22,小鹿島流 出羽の橘氏 − − 小鹿島文書に「早く 前薩摩守公業法師(法名 公蓮)の後判譲状に任せ、

男 公員をして、出羽国秋田郡の湯河、澤内、湊の地頭職を領地せしめる事。右、公蓮

今年六月六日、公員に譲る状の如くば、件の所は 奥州合戦の時、軍功により、古大将殿(頼朝)

より給う所也。云々」とあり。

橘次公業、奥州征伐の勲功により、秋田郡の楊田、豊巻、小鹿島、伊森、桃河、吉田、

瀧河、砥分、大島等を領す。子孫 当地に繁茂す。

23,越後の橘氏 − − 当国魚沼郡に橘村ありて、弥彦神社の神官に橘氏あり、後、花井氏と称す。

この村名を名乗りしもあらん。

24,信濃の橘氏 − − 橘好古の男 中宮亮敏政の裔と云う。その子「定幹−定行−治定」と云う。

25,加賀の橘氏 当国江沼郡に立花村あり、後には、橘村と云う。

       又、長門本平家物語に「留守所より使い二人、税所大夫、橘次郎大夫、

       野代山にて大衆の後陣に追着たり」と。

26,伊香氏族 − − 近江の名族にして 伊香氏系図に

「柏原神大夫助延−同安助(保元・永万の頃の人)−助清(赤尾四郎養子、橘氏)−助時(橘源八、

権禰宜)−橘四郎助実−四郎太郎助房−弥四郎左衛門尉助員」とあり。

又、建長三年九月七日の大社鐘銘に「権禰宜助時、神主 伊香助包」とあり。

27,因幡の橘氏 − − 当国の国司に橘行平あり、土着せし子孫もあらん。その子に光朝あり。

28,但馬の橘氏 − − 明匠略伝に「法橋上人位、諱は延殷、俗姓は橘氏、但馬の国人なり」とあり。

29,美作の橘氏 − − 笠庭寺記に「大野庄(黒米七斗)橘正房」とあり。

30,備中の橘氏 天慶の乱、藤原純友討伐の際、橘経氏、軍功ありて、備中、

       河内、両国を賜い、嫡家は、河内に領地し、庶流は、備中に居ると。

31,安芸の橘氏 − − 厳島神社 保延二年の文書に「高田郡三田郷司 橘頼朝」と、

又 長ェ元年文書に「三田郷司 橘頼時」とあり。

32,長門の橘氏 − − 長門本 平家物語に「長門は新中納言知盛の知行、目代 橘民部大夫通資」とあり。

33,熊野国造族 − − 熊野国造の裔 広方、ェ平九年 行幸の時、行長となり、郡司に任じられて

ここを領し、橘氏に改むと云う。

34,国学者 − − 江戸時代の国学者 橘 千蔭は、大岡越前守の家臣 加藤枝直の子にて、加藤又左衛門の事なり。

35,阿波の橘氏 大麻比古社記録などに橘氏あり。

36,讃岐の橘氏 − − 東鑑に「御家人 橘大夫盛資」の名あり。

37,新居流伊予橘氏 − − 伊予国神野郡に橘里あり、又、新居郡、越智郡、温泉郡に立花郷あり。

この地名を名乗りしもあらん。

予章記に「玉澄(越智)、当国に渡り、新居郡に居住 云々。橘長者 清正と云う人、

当国の司にて下りけるに、契約・姓をさえ橘と改めらる。平家物語十一巻に、

伊予国の住人 新居橘四郎とあるは この後」とあり。

又、一宮社記に「弘仁二年云々、この時の勅使は 当国国司 橘長者清正なり。実遠、

越智姓を改め 橘姓となす云々」とあり。

又、新居郡角野村の深谷寺は、文徳天皇の御宇、伊予守従五位下 橘安吉、創建すと云う。

38,宇和の橘氏 − − 東鑑 嘉貞二年條に「伊予国宇和郡のこと、云々、公業 先祖代々の知行、

なかんづく遠江掾遠保、勅定を賜り、当国の賊徒純友を討ち取りてより以来、当郡に居住し、

子孫に相伝せしむること年久し。云々」とあり。

橘遠保以来 相伝の地なりしが、嘉貞二年、幕府は 宇和を西園寺公経に与え、橘氏は、肥前、

豊前、大隈の地を賜う。

39,その他の伊予の橘氏 − − 忽那開発記に「ここに河野四十代 為綱の一類、新居住 橘六郎清時の子、

天台宗越後阿闍梨華満房を招請して開山となす」とあり。

又、「家臣、橘六郎次有季(子孫あり)」とあり。

40,土佐の橘氏 土佐日記に橘季衡 あり。又、当国安芸氏は、種々の説あるも、

       橘氏とも称し、安喜八幡社棟札は皆、橘と記す。また橘を家紋とす。

       又、安芸郡奈比賀村天満宮、文明十四年棟札に

       「十一月、大檀那 橘鍋若丸」とあり。

       又、小松専当文書に「暦応四年八月、少納言法師 橘宗成」、

       「康永二年三月、橘アマ女」などとあり。

       又、後世、当国の国学者に橘常樹あり、縣居門なり。

41,筑前の橘氏 − − 当国那珂郡に橘小門あり、又、粕屋郡に立花村あり、この地名を名乗りしもあらん。

42,肥前藤津の橘氏 − − 囲碁の聖人と云われたェ蓮は、当国の人にて、花鳥余情に

「肥前掾 橘良利は、肥前国藤津郡の大村の人なり。出家名は、ェ蓮。亭子院(宇多法皇)

殿上の法師となる。亭子法皇の山踏し給う時、御供しける由、大和物語に載せ侍り。

碁の上手なるによりて、碁聖と云えり。延喜十三年五月三日、碁聖、勅を奉じて、碁式を

作りて これを献ず云々」とあり。

43,肥前在庁の橘氏 貞観年中に橘忠宗 国守となりて以来、仁和年中に同興門、

       同清樹、永久年中に同説家あり。皆 国守なり。

       又、永保三年に橘朝臣俊清、応保二年に太宰権少貮兼 大介橘朝臣、

       保元三年に守 橘朝臣以政、又、ェ喜二年、文暦二年、喜応二年、安元

       二年、文治二年、建久四年などに介 橘朝臣、

       又、保元三年に散位 橘、文治五年に権介 橘朝臣成弘 あり

       河上淀姫社以下の文書に多く現われる。国守以外 在庁官として栄えし橘氏あり。

       又、後世、松尾氏の如く、橘姓を称するも多数存す。

       又、彼杵郡上波佐見村金屋神社は、橘諸兄公を奉祀すと云う。

44,橘薩摩家 − − 橘次公業の後にして、伊予国宇和郡から移る。孫の公村より渋江氏となる。

系図は「公業(法名 公蓮)−公義(薩摩守)−公村(渋江左衛門尉)−公遠(薩摩前司)

−公経−公重−公治(下野守)」。

公義の譜に「頼経将軍の時、公義、鎌倉に参向す。時にェ元五年六月五日、三浦泰村誅伐の時、

公義、五ツ石畳紋の旗をさし、一番に筋○橋北辺にて 戦い、軍忠を励み、弟 公員 討死す」とあり。

又、小鹿島渋江系図に「公業、嘉貞二年二月、宇和郡を頼経将軍、常盤井入道の領に付けらるる也。

公業には、肥前国杵島郡内長島庄、大隈国種島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡内久米郷を賜る也。

八男 公義を惣領に立てて、右の四ヶ所を譲り、頼朝より賜る所は、末子 公員に譲り、公義は、

長島に下向し住す。法名、道蓮、公蓮」とあり。

45,筑後の橘氏 − − 前太平記 巻十、天慶四年條に「太宰大弐 橘公頼は、去年の夏より、筑後国の柳川城に

座せしが、純友(藤原)の舎弟 前の右衛門佐 純乘、一万余騎にて押し寄せ、城の四方を重々に囲みて、

貪攻にこそしたりけれ」とあり。

46,肥後の橘氏 − − 当国山鹿郡八幡村に石村八幡宮あり、国志に

「尾登利荘の石村八幡宮は、大社なり。社帳に、承平五年、城州の石清水八幡宮を当国に勧請す。

その時、橘能員、伴親直、男山の藤を煎りて、神馬の鞭とし、神輿に供奉して 山鹿郡石村に

下着して、神殿を造る。神輿 国府に遷座の後、鞭を指せし所の地に藤鞭 生長す。よりて、

藤崎と云う」とあり。

又、伝え云う「飽田郡の藤崎八幡宮の祠官は、三郎丸と云い、荒人神の裔 橘能員の末葉と云う」と。

又、「山本郡岩野岳に道祖城跡あり。天授の頃、小野左兵衛尉橘良旨 在城し、後に宗氏 代々

在城」とあり。

47,薩摩の橘氏 播磨守橘 仲達の男 仲宗、天元二年、罪によりて薩摩に流罪と云う。

48,日向の橘氏 − − 一宮大明神 文明五年の再興記録に「南方大宮司中馬橘重長」、永正八年に

「大願主 橘氏重相」、天文五年に「惣奉行 橘氏公時」とあり。

49,大隅の橘氏 小鹿島文書に「橘薩摩一族 恩賞地・大隅国種島 配分の事、云々」、

       「弥次郎入道蓮妙、橘佐渡四郎公高、薩摩権守久高、次郎左衛門入道幸蓮」など多くあり。

50,他


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