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解説 |
天下の大姓にして、族類の多き事、他にこの比を見ず。 斯く天下にわたりしは、その発祥地は殆ど紀州熊野に して、熊野神が朝野の崇敬を集め、いたるところに勧請され るに際し、神主スズ木(熊野地方の方言、聖なる木=豊作を 約束)に随従して各地に移り、勢力を振るいしによると 考えられる。寿々木,寿々喜,鱸,進木,涼樹などは佳字 |
分派氏族 |
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1,牟婁の鈴木氏 − − 熊野新宮の地より起こる。新宮衆徒七人の内に、
鈴木又左衛門(本家)などあり。
2,藤白の鈴木氏 − − 名草郡藤白浦にありし 鈴木氏にて、諸国鈴木氏は
多くこの
流より別れると云う。続風土記、藤白浦旧家、地士 鈴木三郎
條に「鈴木氏は熊野三旧家の其の一なり。この地、古 へ
熊野神領となり、鈴木一族・地頭となりて、この地に移りし
ならん。鈴木三郎重家、その弟 亀井六郎重清、源義経に仕え
て、所々に軍功ありし事、諸書に見えたり」とあり。
下りて、豊臣氏南征の時、鈴木孫市、太田に篭城す。
又、大阪合戦に鈴木三郎重興、東照神君のお味方となり、
浅野家に属し 泉州樫ノ井へ出陣す。その時の恩賞として、
浅野家より在田郡野村にて、耕田十五町、藤白にて、水田二段
余り、山林二個所を給う。封初、これにより、更に畑高十一石
余りを賜う。その家、藤白権現社の東熊野古道にあり、旧は
今の専修寺の北の辺に住す。今の屋敷は、山名家の別荘にて、
山名氏滅びて後、移ると云う。
3,雑賀の鈴木氏 − − −名草郡名高浦の旧家に鈴木氏あり、「元祖は鈴木三郎の子
にて、三之丞と云う。浅野家の時、樫井合戦に討死す。子孫、
藤白浦に住し、後 当村に移る」と云えり。
4,日高の鈴木氏 − − 日高郡気佐藤村旧家に鈴木喜兵衛あり。「鈴木三郎重家より
三十代 三郎重則の弟・三郎右衛門重春、名草郡藤白浦より
当地に引移り、代々居住す」と。
5,松山氏族 − − − 備中松山城主
松山丹後守の二男 新助、その子 伊之助、畠山
紀伊守に仕う、永禄年中、畠山家、三好家と合戦の時、河内国
佐々山にて軍功あり。その後 粉河村に来たり、藤堂家に属し
当村に住す。松山を鈴木に改め戦功あり。
その裔、那賀郡粉河荘猪垣村古士に鈴木兵三郎あり。又、
妙寺村地士に鈴木兵右衛門あり。
6,藤原姓 − − 京都下鴨社社家にして、神工の家なり。
7,宮原氏族 − − 伊勢神宮外宮の社家。
8,伊賀の鈴木氏 − − 幕臣、鈴木大之進重嶺は、国学者として名あり。
9,伊勢の鈴木氏 − − 北畠家臣にして、多気郡大淀城を守る。永禄の頃、鈴木大蔵
貞経あり、同十二年九月、九鬼嘉隆、兵舟を帥いて当城を攻め
るや、堅く守りて之を退く。天正中、信長の兵来たり攻む。城
中適に通じるものありて、陥る。子孫 当村にありと云う。
10,尾張の鈴木氏 − −尾張志に「津島村 鈴木九郎左衛門は、平の村の地頭なり」と。
又、丹波郡大縣神社神楽坐に鈴木氏あり。その他 後世 当国
の国学者に鈴木仙蔵直実、鈴木多門次春蔭、また、尾張藩
鈴木無念流剣法の師に鈴木大学重明あり。
11,清和源氏開田氏族 − − 開田重用の後胤にして「与八郎の時、外家の家号、
鈴木を真似る」と云う。ェ政系譜に「与八郎−近江長次
−修理長常−長瀬、家紋 雲菱のうち雁金、藤丸菊」と。
12,三河の鈴木氏 − − 鎌倉実記巻七に「源義経方人 鈴木次郎重行と云う者、義経
没後法師に成りて、三河の衣里に往きて、猿投山に熊野三所
の神を勧請せり。今 彼の国の猿投大明神とはそれなり」と。
又、鈴木三郎重家の曾孫重信、当国に移りて、一宮(知立?)
社司となると。
13,矢並の鈴木氏 − − 二葉松に「矢並村古城、鈴木七郎、紀州より初めて来たり、
この所より竹村(碧海郡)に移る、云々と。鈴木下野守住居、
同所大平寺は代々の菩提所」と。
又、一本系図に「矢並の鈴木左京進重勝(大和守)の子、
與六郎重親は、酒呑に移り、小次郎忠親は、足助に移る。
而して重勝の女は、松平親忠君に嫁したり」と。
14,酒呑の鈴木氏 − −鈴木善阿弥、文明年中、賀茂郡酒呑城(酒呑村千貫文)を
領して居住す。その後裔、鈴木下野守、息日向守、息監物
など、居住し寺部に属す。その系は「善阿弥−刑部烝(一木
に住す)−左京進(矢並村)−與六郎(文明年中、酒呑村に
居る)−帯刀−治郎左衛門尉−三郎右衛門重政−忠兵衛重次、
又、重政の弟・友助信光(酒呑村)」と云う。
15,則定の鈴木氏 − − 賀茂郡則定城(酒呑村則定)は、「鈴木三郎九郎の居城也。
子孫 千石を領す、同友之助居住と云い、又、同村古屋敷
椎木と云う所、鈴木十内」とあり。内則定の鈴木氏は、幕臣
鈴木氏の宗族にして、他をその支族とし、ェ政系譜には、
次の系図を挙ぐ。
善阿弥(平内大夫重善・刑部左衛門、三郎重家の伯父、陸奥国に下り、三河国矢矯に至る。 賀茂郡高橋庄矢並郷に居住し、猿投山に登り、一宇を建立す)−刑部丞(七郎重基、後
左京進、 善阿弥の三男、高橋庄 一木郷を領す)−三郎重晴−重基−重政−重範(足助庄真弓城に移り、 足助次郎と称す)−重員(新田義貞に属す)−大和守重勝−左京進重就−與六郎重時(文明年中、 足助庄酒呑郷に住す)−帯刀重興−重信−重政−忠兵衛重次−重成−長吉重祐」とあり。 |
16,寺部の鈴木氏 − − 天文中、寺部城(寺部村)主に鈴木日向守重則あり、
一に重辰とも書く、改正三河記に「寺部の城主 鈴木日向守
重辰」とあり。永禄元年二月五日、日向守、今川氏に叛す。
家康初陣これを攻む。後 永禄八年十一月、家康復 当城を攻む、
日向守 駿河に走る。後 高橋七十騎と云う組あり。
小給地方由緒書寄帳に「鈴木六左衛門、曾祖父六左衛門
天正
六年 召し出さる、三州高橋七十騎の内」と。
この流はェ政系譜に「善阿弥十五代日向守重教(寺部城に住す)
−下野守重政(今川義元旗下)−彦三郎重次」と。
17,足助の鈴木氏 − − 鎌倉以降、足助氏の拠れる地にして、元弘に有名なる足助
次郎を出せり。然るに後には、鈴木氏の所領となり、西参河
に雄視し、松平氏と相対して、互いに下らず。但し、一本鈴
木系図には「次郎左衛門重則、次郎重範の女婿となりて、
その所領を併す」と云う。尚、ェ政鈴木系図では、足助氏と
混同す。
又、後の足助城(足助町)は、足助次郎の拠りし飯森山城
とは別にて、もと深見中将居住せしと云う。後 鈴木氏拠り、
大永の頃、次郎左衛門重政、その子 越後守重直、当城にて
勢力あり。元亀二年四月十五日に至り、武田氏の兵に破られ、
重直、その子重信と共に足助を去る。次いで武田の将下條
伊豆信氏居守せしが、天正三年、武田の兵撤去し、鈴木氏
復た、当城に帰るとぞ。ェ政系譜には、第十五項の重興の弟
「重長(初め重之、越後守、足助城に住す)−重次(初め政長、
喜三郎、伊賀守、断絶)」と云い、又、 酒井家臣鈴木系図
には「越後守重続(足助城)−伊賀守重直(喜三郎)、弟
小兵衛重成(小牧陣討死)」とす。又、「左京進某−小次郎
忠親(足助庄)−雅楽助重政(道見、道一、弟紀伊守は、小
原城に住す)−越後守重直(天正十二年三月死)−兵庫頭
信重−伊賀守康重、信重 弟 久右衛門伊直」と云うもあり。
又、喜三郎、一に善三郎とも云う。家康に属し、その子
友之助は、千百石を領すと云う。
18,足利の鈴木氏 − − 二葉松に「足利村古屋舗、鈴木忠兵衛、原田弥五平など
居住、天正二年、武田の為に落城す」とあり。
19,九久平の鈴木氏 − − 加茂郡九久平城(九久平村)は、鈴木市兵衛 及び 本多
中務など居住すと云う。市兵衛裔も幕臣となり、五百石を領す。
20,大草の鈴木氏 − − 同郡大草城(小原郷大草村)は、二葉松に「鈴木越中守
重実、これは足助城主 鈴木越後守の弟なり、広忠公 御娘
市場殿の実父なり、鈴木修理出生。大草村に住す、鈴木嘉心、
鈴木吉弥、これは名主なり」とあり。
21,市場の鈴木氏 − −同郡市場城(市場村)は、鈴木越中守重実の支配と伝う。
22,加茂の鈴木氏 − − 「四松村古屋敷は、鈴木九左衛門、子孫 二百石を領す」。
又、「瀧見村古屋敷は、鈴木権之助。大島村古屋敷は、鈴木
久右衛門。近岡村古屋敷は、鈴木三郎九郎、父 忠兵衛、
鈴木九大夫 正三」とあり。而してェ政系譜には、当国鈴木
氏五十八家を載せたり。善阿弥、及び重家 曾孫重信の後な
りと云う。家紋 抱稲穂、三つ雁の丸、下り藤の丸など。
又、野見神社神主に鈴木左内あり。
23,三州藤原姓 − − ェ政系譜に「藤左衛門−弥右衛門−八右衛門(重直)」也。
家紋 藤丸、丸に三巴。
24,清和源氏松平氏族 − − 能見松平支族にして、重弘の時、外家 鈴木を真似る。
「見松平光親−次郎左衛門忠恒−新助忠澄−清右衛門尉
親次−権兵衛重弘−権兵衛重次」なり。
25,伊保の鈴木氏 − − 松平大学の後と云い、又、松平信光十男家勝の嫡男 忠次、
その子忠勝の三男 清右衛門重友、その母と共に、鈴木重信の
家に入りて、その氏を真似ると云う。「友重−長左衛門重政
−兵九郎重視−源左衛門重舊」にして、子孫千二百石を領す。
26,碧海の鈴木氏 − − 当国鈴木氏の祖 鈴木七郎は、始め賀茂郡矢並に居り、後
当郡竹村に移ると云う。二葉松に「竹村古屋敷、鈴木七郎、
三州鈴木氏の元祖なり。その後鈴木主殿、鈴木七左衛門、
鈴木助左右衛門、鈴木市蔵など居住」と載せ、又、知立神社
往古の社家に鈴木氏ありて、一ッ木村に住せりと云い、
又、河島村の士に鈴木小五郎など諸書にあり。
27,額田の鈴木氏 − − 山綱村の士に鈴木五左衛門、渡津村屋鋪に鈴木金左衛門
などありと云う。
28,八名の鈴木氏 − − 山家村の名族にこの氏あり。「鈴木平左衛門重長−三郎大
夫重吉−石見重好」にして、初め今川氏に属し、後に徳川氏に
属して功多し。上総介忠輝に属し、後 水戸家に仕う、その子
平兵衛重展なり。又、一族井伊藩に仕う。又、服部の庄大野村
奥村に鈴木伝右衛門あり。
又、三渡野村飛龍大明神 神主鈴木など多し。
29,渥美の鈴木氏 − − 岩崎村鞍掛大明神社家 鈴木藤大夫は、天正十八年棟札に、
「藤原朝臣禰宜藤大夫」とあり。
30,遠江の鈴木氏 − − 当国一宮小国社神主家にして、当地方の名族なり。元亀中、
神主鈴木豊前守藤原重勝あり、武藤條を見よ。又、奥山系図
に「鈴木石見守重安 云々」と。又、長下郡中泉の住人 鈴木
市蔵は、市蔵新田を開発す。
31,駿河の鈴木氏 − − 式社略記に「廬原郡御穂神社に鈴木三郎の系図、具足、
太刀を所蔵す」と。
又、益頭郡焼津神社(七十石) 神主鈴木外記、久能山
社家にもこの氏あり。
又、駿府木枯森八幡宮平禰宜に鈴木左伝次。
32,伊豆の鈴木氏 − − 田方郡江梨村の豪族にして、建武中、鈴木重行 この地に来
住す。熊野党の海軍にて、鎌倉公方に招かれしなりと云う。
その子を重家、五世にして、鈴木兵庫頭繁允に至り、更に
三世にして繁郷あり。「その子繁用−繁宗−繁朝−繁定
−繁顕−繁輔−繁義」也。(増訂伊豆志稿)。
相州兵乱記に「伊豆国住人 江梨の鈴木、北条早雲に従う」と
云い、以来 船手の大将にて、鈴木兵庫助繁宗など、諸書に多
くあり。繁義に至り亡ぶ。
33,清和源氏仁科氏族 − − 相模の鈴木氏にして、中興系図に「鈴木、清和、本国
相模、家紋 丸ナギノ葉、仁科式部大浦信重の男 伊賀守
義重これを称す」とあり。
34,秀郷流藤原姓小山氏族 − −熊倉氏の裔にして「家紋 亀甲、六角の内に下り藤
丸に三ダナの葉、清兵衛重員−権十郎重福−清兵衛重任」と。
35,武蔵橘樹の鈴木氏 − −橘樹郡堀之内村 山王社神主にあり。新編風土記に「先
祖は紀州熊野より出しものにて、いつの頃にかこの地に移
り住せり、天文元年、鈴木重種がしるせし、鈴木家の系図
に由来の書あり。その事柄は取るべきものなけれど、古き
家なることは、是にても知らる。世々神職を司る。吉田家
の配下なり」と。
又、溝の口 鈴木家につきて「先祖は鍛冶なりと云い伝う
れども、旧記を失いたればその証無し。その宅は、天正年
中の造作なりとて、近き頃までありしかど、損壊して後に
修造せり。されど古の桂若干を用いて今にあり。又、古の
棟札もあれど、悉く煙にそみて、文字読むべからず」と。
その他、長尾村の鈴木氏は、長岡将監の後にて、北条家臣
鈴木安太左衛門の後を嗣ぎしなり。
36,武蔵在原の鈴木氏 − − 新編風土記・荏原郡條に「上北沢村、先祖は鈴木但馬
重経と云いて、北条氏康に仕う、永禄十二年十二月六日、
北条新三郎に従い、駿河国蒲原の城にて信玄と戦い、
軍利なくして、討死せり。この重経に三子あり、嫡男は
新八郎重継、二男 新助某、三男 新平重貞と言う。重継
始めて北澤村に来たり住し、吉良家の家人となれり。
その後 故あって、家を弟 新平重貞に譲りて、その身は
東照宮に仕え奉り、天正十二年四月九日、尾張国
小牧山合戦の時、井伊直政の手に属して、戦死せり。
その弟 新助は別に召されて、御家人に加えられ、御鉄
砲玉薬組となれり。重貞は天正年間、吉良家没落の後、
上北澤村に住し、己の家人たりし 益戸庄五郎に拠る。
重貞 後 病没して家名を庄五郎に譲る」と。
又、石川村鈴木氏「当村は鈴木七郎左衛門と云うもの開
闢せり」と云い伝う。南品川宿下に鈴木道胤居蹟あり、
「永禄十二年 武田信玄 品川の宇田川石見守、鈴木などを
追補せしこと、小田原記に載せたり。これ等に拠るに、
古くから当所に住せし豪家なること知るべし。今 子孫
断絶して知るもの無し」と。
37,桓武平氏北条氏流 − − 荏原郡の名族にて、「先祖は鈴木加賀守清重と云う。
相伝う、北条氏尚の庶子なり、母の賤しきを以って、
憚りて鈴木を氏とせりと。氏尚と云うは、小田原の氏
直の一族なりや、未だその家系判明せず。清重は天正
八年十一月十五日没す。それより今の平右衛門に至る
まで血脈相続せり」(新編風土記)。
38,桓武平氏千葉氏流 − − これも荏原郡の名族にして、新編風土記に「鈴木氏(中
延村)、総州千葉家の庶流鏑木氏の裔なり。家に系図を蔵す。
その略に云う、鏑木四郎胤憲は、千葉四郎守胤の養子にして、
文明十八年、相州鎌倉山内に生まる。始めは下総国寒川に住
し、後 同国鏑木村に転じ、これより世々、鏑木を氏とせり
と云う」又、同系図に「天文七年十月七日、小弓御所義明、
北条氏綱と国府台合戦の時、胤憲、義明に従いて戦死す。
その子 親次入道、孫の外記守憲、父子民間に漂泊せしが、
親次没後、弘治元年 その族、鏑木藤左衛門、友人 飯室雅楽、
鈴木源左衛門と共に、当郡大井郷不入読村、今の不入斗村辺
に移り住せり。同二年 北条氏康の家人 大道寺駿河守直政、
清水上野永英の指揮によりて、当所の荒れ野を開墾せし時、
清水上野が下せし文書、家に蔵せり。この守憲より子孫世々
相続して、今に連綿せり」と云う。
39,入間の鈴木氏 − − 古屋本郷に、鈴木氏あり。「母に孝をつくしたるにより、
地頭より永く苗字を許されし」とぞ。
又、当郡三島眼科医に鈴木宗閑あり、その裔 龍碩、その子
道淳、その子 宗観は、一貫と称す。名医として一世に轟く。
40,比企の鈴木氏 − −第三十二項の後にて、新編風土記に「鈴木氏先祖は、紀伊国
熊野の人にて、鈴木兵庫助重光と云う。この人、伊豆国に
下り、江梨と言う所に住せしに延徳年中、北条氏茂 その国
を討従えし時、始めて北条家の旗下に属せり。重光の子
左京重安は北条氏綱、氏康の二代に奉仕す。その子 上野介
重氏、その子 民部重直も、皆 北条家の旗下にて、重直は
松山城の寄騎たりしが、その頃当所は、松山城、鉢形城、
両城の領分境なれば、その境目の鎮護として、ここに住居
せり。その子 隼人佐重親、亡き父に替りて境を守りしに、
北条家没落せしかば、遂に土民となれりと。家に蔵する記録
に見えたり。重親より今 仙右衛門まで八代に及ぶと云う。
天正十年北条家より与えし、伝馬継立の掟書を蔵せり」と。
41,新座の鈴木氏 − − 新編風土記に「鈴木氏(上新倉村)。村内 原新田に住する
百姓にして、久しくこの地にあるよし。系図に、先祖 鈴木
若狭守光利より、その一子 隼人正 利国へ、文録四年乙未
四月十五日譲りしよし見ゆ。又、同日、高倉大納言より
賜いし添状と云うものあり」と。
42,埼玉足立の鈴木氏 − −新編風土記に「鈴木氏(東村)。家記を閲するに、
先祖は。鈴木左馬助重次とて、管領上杉氏に仕え、その子
雅楽助重久も上杉の臣たりしが、その子 雅楽助業俊の時
に至り、北条氏政に属し、その子 日向守重門より太田
氏房の旗下となれり。この日向守、後 入道して了清と称
す。元和三年 手づから筆記せし軍功の覚書あり。それに
数々の戦功ありて、氏政、氏直より感状を与えられしが、
火事の為に失いし、と記せり。今も 焼残りしものとて
文書六通を蔵す」と。
又、足立郡鹿浜村の名族に鈴木氏存す、当郡のこの氏は、
抱稲丸、丸にいの字、下り藤などを家紋とす。
43,都筑児玉の鈴木氏 − −「都筑郡東方村の旧家にあり。先祖を鈴木但馬守と云う、
北条氏直に仕えり。その頃の文書十一通を蔵す」と。
又、児玉郡西今井村の鈴木氏は、「家系を伝えざれば、
古を詳かにせず、文書八通を蔵せり。その文によれば、
鈴木山城守と号し、鉢形城の北条氏に仕え、その頃、
この辺を指揮せし人にて、それより世々当所に住せし
事知らる」と。
44,その他 武蔵の鈴木氏 − − 当国中藤村 大通龍社の神職、女影村荒神社の神職
にこの氏あり。又、松山城主 上田政広 家臣に鈴木
重直あり、後 水戸藩に仕う。その子 「重正−重明
−重治(弟・重淳)−重秀=重祐(重淳の子)」にて、
重祐は、与市・白泉と号す、学名高し。
45,多摩の鈴木氏 − −新編風土記に「鈴木氏(上石原宿)、先祖は鈴木主水と号し、
北条家に仕え、今は勝田を氏とす。主水のこと証拠無ければ
定かならず」と。又、「当郡貫井村の農民 鈴木利右衛門は、
鈴木新田を開く」と。又「鈴木九郎(中野長者)は、本郷村
成願寺を開く」と。
又、乙津村熊野社神主家、総社々家など多し。
46,豊島の鈴木氏 − − 鈴木三郎重家の子孫にして、応永の頃 紀州藤白より中野の
郷に来住すと云う。新編風土記に「豊島村神主鈴木権頭光景は、
紀伊国熊野鈴木氏の苗裔にして、元享年中、二郎左衛門重尚と
云う者、王子村に来たり、豊島氏と相謀りて、当社を造営す。
重尚十二世の孫 弥三郎の時、天文十七年当村に移住せり。
それより五世八左衛門と云う者、兄大太郎が家を継ぎ、その孫
右近常表、京都吉田家の配下となり、伊賀守と称す。常表より
今の光景まで五代に及ぶ」と云う。
又、御府内備考に「並木町 旧家 鈴木伊兵衛。先祖の儀は、
鈴木修理亮と申す。伊兵衛、又右衛門、名主役云々」と。
47,下総の鈴木氏 − −本土寺過去帳に「鈴木妙信、享徳?十一月。鈴木太郎右衛門、
鈴木豊前守、鈴木藤右衛門」等見ゆ。又、香取郡松沢村熊野
権現社祠官に鈴木氏、宇井氏、葛飾郡八幡驛八幡社祠官に
鈴木氏、匝瑳郡松山権現社祠官に鈴木氏などあり。
又、当国に鳩酸草を家紋とする鈴木氏見え、又、当国の国学
者に鈴木雅之(一平)あり。
48,常陸の鈴木氏 − − 新編国誌に「鈴木。穂積氏より出でたり、世々紀州熊野の
神人なり、本国の内 この苗字甚だ多し。蓋し、古代国人
熊野を信じるもの多く、その祠を所々に移して、これを祠る。
これを熊野別所と称す云々」と。
茨城郡宍戸郷岩間村羽梨山神社、同所 熊野宮、同国信田郡
木原村楯縫神社など神主 鈴木氏なり。又、書家に鈴木鵞湖
あり。又、水戸藩に鈴木氏多し。
49,磐城の鈴木氏 − − 宇多郡(相馬郡)中野に熊野社あり、建武延元より以前に
鎮座し、神官鈴木氏 数村を領して一方に雄視す。奥相志に
「鈴木氏、宇多郡の内、数村を領せしが、争奪の世に至り、
独立する能わず。故に白川道忠に属し、以って其の領地を
保つと。」
50,仙道の鈴木氏 − − 田村家家臣にあり。
又、二本松熊野社神官、鈴木安芸守、鈴木広精など、その名高し。
又、信達神名帳に「信夫郡分 熊野大権現社人 鈴木志摩」とあり。
51,会津の鈴木氏 − − 耶麻郡條に「上田村旧家 鈴木善兵衛。この村の名主にて、
紀伊国藤白の住人・鈴木三郎重家の末裔なり。重家は源義経、
本国下向の時 従い来たり。高館にて討死にせり。その頃
重家の子 常光坊と称し、父の行方を尋ねんがため本国に
下りしに、父の討死を聞き、この村に止り、熊野宮を勧請し
代々修験を相続す。然るに重家より八代の孫 大寿院の子
少納言と云う者、鈴木善左衛門と称して、この村の名主と
なり、子孫相続して、今に至りし」 と云う。
又、「白津村神職 鈴木山城。遠祖を直光と云う。今の山城
記周は、その三十六世の孫なり」と云い、
又、「新村稲荷神社神職 鈴木伯耆。五世の祖を備中行重と
云う。正徳元年、始めて当社の神職となる」と。
又「下窪村旧家に鈴木市右衛門あり、先祖は七左衛門某とて
加藤家に仕え、百六石余りの地を領し、この村に住せり。
加藤家、石見国に移りし時、七左衛門も従って、彼の地に行
きしが、仕を辞してこの地に帰り、再び越後国村松に遊び、
剣術手跡を師範し、その身を終われり。その弟を七右衛門と
云う、この地に止り名主となり、今の市右衛門まで、数世
名主を勤む」と。
又、「遠田村 善行者 鈴木佐助。この村の名主なり、安永八
年褒賞さる」と。
又、「岩沢村 熊野宮神職 鈴木大和、材木町に居住す。正徳
四年、大和兼雄 始めて当社の神職となり、今の大和専寿
まで三代」と。
又、「大沼郡下中津川村神職に鈴木伊勢あり。権大夫某、
当社の神職となる、今の伊勢義広の六世の祖なり」と云う。
52,陸前の鈴木氏 − − 塩釜社別宮一禰宜以下に多し。除目旧記に「鈴木云々は
大概宮侍なり」と。
又、幕末 仙台藩士に鈴木雄三郎の男 大亮あり、功を以って
男爵を賜う。その子 成功なり。
又、俳人に鈴木道彦あり。
53,陸中の鈴木氏 − − 江刺郡片岡村多門寺薬師堂は、正治中、鈴木三郎重家の子
重染の創建と伝う。
54,南部の鈴木氏 − − 参考諸家系図に「姓 藤原、紋 下り藤、生国近江」と。
55,羽後の鈴木氏 − − 姓 藤原と称す、家紋 下り藤の中に三葉二穂の稲(稲の穂
三本のものあり)、換紋は草体の卯の字。道の字を通字として、
金砂山和尚を中祖とし、佐竹藩の士分となれるあり。
又、由利郡(飽海郡)本庄藩商人 鈴木七郎右衛門、文政中、
同志と西目潟を開拓す。
56,羽前の鈴木氏 − − 永正中、高楡城士に鈴木讃岐(寒河江記録)あり。
又、最上氏配下の将にこの氏あり、義光時代、鈴木備後は
村山郡漆山館に拠る。又、天童家臣に鈴木氏見ゆ。
又、酒田の名族に鈴木伊右衛門あり、正徳中、広野を開発す。
又、米沢の名家に鈴木七右衛門あり、米沢侯に仕え名あり。
57,越後の鈴木氏 − − 弥彦社中條の神官、船越の神官にこの氏あり。
又、前田創業記に、「天正九年、越後の士 鈴木藤丸など、
新川郡魚津城に拠る」と。
58,越中の鈴木氏 − − 当国の大族にして、新川郡魚津城は永正二年、国士 鈴木
大和守国重居するを、長尾為景、これを囲む。大和守は、
為景の将 荻田監物に討たるとぞ。
又、越乃下草に「布施神社、南条保内布施村、神職 鈴木
信濃」と見ゆ。
59,能登の鈴木氏 − −「天正十二年、長連龍、徳丸城にある時、神保氏春が襲わん
ことを察し、鈴木因幡をして、窪田館(東馬場城、浅井庄・
今 東馬場村)を守らんとす」とあり。
60,加賀の鈴木氏 − − 三州志 能美郡條に「別宮、鳥越(軽海郷別宮村領にあり)。
鈴木氏代々この城に拠れり。天正八年、柴田勝家、出羽守重泰を
攻めて斯波を抜き(越加記に『勝家・佐久間盛政、攻むれども抜
けず。後、松任城にて和し、山内の諸将と共に鈴木父子五人誅せ
らる』と。出羽及び右京、次郎左衛門、妥女、太郎なり)その将
吉原次郎兵衛を置けるに、九年、賊起こりて、この城を囲み撃ち、
吉原ここに死し、城 陥落す。云々」とあり。
61,近江の鈴木氏 − − 滋賀郡宇佐山古城は、鈴木三左衛門拠ると伝えらる。
62,丹波の鈴木氏− − 丹波志 氷上郡條に「鈴木松右衛門、子孫 佐野村。紀州より
浪人にて来る。敵多くあるに付き、当村に来住すれども、また
紀州に帰り、藤代嶺にて討死す。白藤 今に花吹くと云う」とあり。
63,美作の鈴木氏 − −古城記に「槇山城は鹿田村にありて、鈴木氏ここに居る」と。
この鈴木氏は伝え云う、能身大臣 重隆の後裔、紀州藤代の
住人 鈴木重次十二代の孫 帯刀左衛門重光、享徳三年三月、
美作国錦織城主となり、後 備中国 宮地城主元継を討ちて、
その地に移り、その孫 重道、毛利氏に属し、その子 孫右衛
門近重、宇喜多氏に属して槇山城主たり。石賀の戦いに杉
雲曉を斬り、唐松、三尾、佐井田などの諸城を抜き、威武
遠近に振いしとぞ。子孫 関村に存す。
又、勝北郡にあり、伝え云う、紀州藤代の大臣重隆二十二世
孫 鈴木三郎兵衛重家、十世孫 三太左衛門重元、苫北岩尾城
に来たり、その子 十郎重氏は、城主福田三郎の娘を娶る。
十郎、弟 四兵衛重季は共に宇喜多氏に属し敵将 萬代市之丞
を射殺し、将 原田三郎を斬り、又、代官となりて数々功
ありと。
又、八郎秀家判書(天正十七年)に「鈴木孫右衛門、鈴木
志兵衛」。
又、木造大膳判書(慶長十六年)に「鈴木孫作」等あり。
64,備中の鈴木氏 − −当国の豪族にして、耶麻郡落合村旧家、鈴木四郎右衛門條に、
「この村の名主なり、先祖は弥次郎重賢にて、源義家朝臣に
仕え、備中国浅口郡糸田を領す、重賢十世の裔 兵部少輔
道清、その子 兵内左衛門重義まで、代々鎌倉に住す。
康安元年 細川相模守清氏に語らわれ、細川右馬頭頼之と
戦う。相模守滅亡の後、貞治六年道清父子共に、会津に来
たり、葦名盛詮に仕え、翌年 河沼郡稲川荘に移り、新田を
開発し、この村を開き、落合村と名づけこの地を領す。
後 重義入道して、道徳と改め、応永十二年二月死す。子孫
相続いてここに住せり。道徳の子孫 四郎右衛門重次と云う
もの、慶安四年新橋を作りしと云う。今の四郎右衛門は、
重次の六世の孫なり」と。
65,石見の鈴木氏 − − 邇摩郡五十猛村大浦韓郷山城主に鈴木長治あり、石見志に、
「鈴木長治の曾孫長重、元弘中 三角氏に属し、北条軍と戦い死す」と。
66,坂上姓 − − 坂上系図に「田村麿−正野−貞雄−正仁−正実(鎮守府軍監)
−維親(鈴木三郎、始めて肥後国に住す)」とあり。
67,讃岐の鈴木氏 − − 太平記巻三十八に鈴木孫三郎行長の名あり。
68,淡路の鈴木氏 − − 津名郡仁井村の名族にして、穂積姓と称す。国学者 鈴木
重胤は、この流にして、世々この村の庄司たりしと云う。
父は重威、母は岡本氏なり。
69,薩隅日の鈴木氏 − − 和銅元年、鈴木三郎政氏、同 四郎政良など、摂津住吉の
神霊を守護して、大隅国姶羅郡に下ると伝う。
又、日向記に鈴木二郎左衛門尉の名あり。
70,他
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