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曽 根 (ソネ) |
解説 |
後世は多くこの字を用うれど、古くは曾禰なり。 諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす。 又、越中高岡に中曽根の地名あり。 国土基本地図に41ヶ所あり。 ソネの地は、ゴツゴツとして石の多い地を言う。 埆、埣、确、岨、礁など皆 ソネを意味する。 即ち、川では石の多い河原、山では崖、海では 岩礁地帯。 |
分派氏族 |
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1,度會氏族 − − 伊勢国の名族にして、外宮祠官の称号なり。安濃郡曾禰村より起
こるか。その系は度會二門系図に
「頼房−忠房(二男、曾禰、一禰宜、大治元年十月十一日薨)」と。
2,甲斐の曾禰氏 − − 当国八代郡に曾禰村ありて、後 上下に分かれる。蓋し、曾禰連
の住居せし地ならん。村内に古墳の大なるもの多く、その族の栄しを語れり。
又、この地名を名乗りしもあらん。
3,清和源氏武田氏族− −これも甲州の名族にして、武田氏の祖 黒源太清光の子 厳尊、曽根禅師と
称す。尊卑分脈に「武田義清−清光−厳尊(一説に源尊、曽根禅師)−遠頼−長頼−長光
−為頼−為高−為光」と。
4,上野の曽根氏 − − 上記の族にして、上野国志 石倉砦條に「武田信玄より曽根七郎兵衛、騎馬
三十騎、足利七十人の大将として、これを守る。永禄八年二月、前橋押さえの為、砦を築く。
同年六月、北條丹後守(北越の大将)不意に押し寄せ
攻め破り 丹後守の甥 阿老神六郎をして
守らしむ。七月下旬 信玄 攻め寄せ 阿老神などを討ち取り、馬場美濃守信房に下知なさせ
縄張りを改め、修理を加え、和田持とし、曽根七郎兵衛を城代とす」とあり。
5,幕臣曽根氏 − − 「先祖 曾禰五郎遠次より、代々曽根村にあり」と云う。
ェ政系譜に「定次(孫兵衛)−源左衛門長次−同 家次−孫兵衛吉次、
家紋、丸に左三巴、割菱、剣鳩酸草」と。
6,藤原南家 − − これも江戸幕臣にして、家伝に「興津良信の男 良次の子 吉重、上記 曾根吉次の家号をうけ、
曾根と云う。家紋、丸に花菱、剣花菱、九曜、三頭左巴」と。
ェ政系譜に「伝七郎良次(主膳、内記)−内記吉重(伝七郎)−五郎左衛門吉広(舎人、兵部)
−友広−広定−広正−広重」とあり。
7,武蔵の曽根氏 − − 平安朝、曾禰好忠の歌に「武蔵野の岡部の原 云々」と。
下りて小田原役帳に「曽根采女介の知行 都筑郡荏田村に七十七貫五百
八十文。また、三十七貫百文、大棚、曽根外記」と。
8,越後の曽根氏 −
− 当国魚沼郡時水(城川村時水)には、城跡二つありて、一つを夏城、もう一つを冬城と云う。
上杉憲顕の武将 曾根五郎左衛門の拠れる所と伝う。新編会津風土記に
「時水村の城跡、曾根五郎左衛門某と云う者住せしと云い伝う」とあり。
9,佐々木氏流説 −
− 系図は「扶義−経頼−章経−高経−高信−経方−季定−秀義−定綱−信綱−氏信
−満信−宗氏−秀信−信尚−信高−秀昌−高昌−宣高(後に毛利氏に仕う)−高安(兄 高房、
毛利氏に仕う)−高久−高家(喜多郡為廿日市村庄屋)」とあり。
10,佐々木氏族− − 紀伊国牟婁郡の名族にして 続風土記に「曾根の荘は曾根氏領す」とあり。
又、曾根荘條に「中世以後、北畠家の領地となり、近江の佐々木氏の支族来りて この地に住し、
当荘七ヶ村を併せて、己の領地とし、曾根浦に居る、後、堀内氏の旗下となり、この地 遂に
堀内氏に併せられて、当郡の内となれり」とあり。
又、「曾根殿屋敷跡あり、佐々木氏の邸地なり、曾根殿と云う。近江の佐々木六角の同族にして、
曾根、古江、賀田、梶賀、須野、甫母、二木島里、二木島浦、八ヶ村を領す。天正の頃至りて、
曾根弾正と云うあり、堀内氏に属す。その子を佐々木孫太郎と云う。曾根、賀田、古江、梶賀の
四ヶ村を領す。代替わりによりて、堀内氏、その領地を削りて四ヶ村とせしなるべし。
孫太郎の長子を新吉と云う。十八才にて、渡鮮し、軍中に死す。その弟を久三郎と云う。
大阪陣の後、浪人となり、二木島に住す。子孫 今尚 二木島にあり」とあり。
11,藤原姓宇都宮氏族 − − 伊予国喜多郡の名族なり。系図は以下の如し。
「藤原兼家−道兼−兼隆−兼房−宗圓(宇都宮)−宗綱−朝綱−成綱−永綱 −仲綱(一説に成房・曾根に改む)−康綱−元綱−兼綱−高綱−忠綱−吉綱 −伊綱−宗綱−実綱−清綱−朝真−高昌−宣高(毛利氏に仕う)−高敬−高良 −義高(喜多郡為大瀬村 庄屋)」なり。 |
*伊予の宇都宮氏の系図は、諸説あり。古くより宇津神社(宇津の宮・宇津氏)
あり、領主の宇都宮氏と音通じる為 混同した人がいる可能性あり。
12,他
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