少   貮(ショウニ)

解説

大宰府の官名にして、長官(帥・多くは親王)を補佐する次官。

鎌倉時代以後 武藤氏、この職に任じられてより以来、世襲職となり、

少貮を以って氏とするなり。 よって、少貮の地名 無し。

 

1、秀郷流藤原姓武藤氏流 頼朝 平氏を滅ぼした後、文治二年、鎮西奉行を置き、天野遠景を

     これに任じて、西国の武士を管領せしめしが、建久七年、武藤小次郎資頼これに代わり、

     資頼は、また筑後守に任ぜられ、大宰少貮に補せられ、且つ、筑前、豊前、壱岐、対馬の

     守護職たりしと云う。その後 貞永元年 資頼 職を子の資能に譲る。これより子孫 少貮の

     職を世襲し、遂に称号、氏となる。尊卑分脈に

     「景頼(武者所、近藤武者)−武藤頼平(武者所たるにより武藤と号す。猶子、武藤頼兼の子。

     武藤ケンジョウ頼氏の後胤。頼氏は、源頼義の副将軍ケンジョウたるなり)−資頼(小卿、

     筑前守、鎮西守護)−資能(小卿、豊前守)−経資(小卿、豊前守)−盛経(小卿、筑後守)−貞経(

     小卿、筑後守)−頼尚(少貮)−頼澄(越後守)−氏鶴丸」と。

  * 小卿は、少貮の唐名。

2、藤原北家道長流 少貮系図、武藤系図、筑紫系図などは、御堂関白道長の子 長家の後とす。

     少貮系図に

     「道長−長家−長頼−頼氏−頼家−頼兼−頼平−資頼(武藤小次郎、建久六年、従五位上に

     叙し、大宰少貮に任じ、筑後守を兼ね、鎮西奉行に補せらる。よりて来たりて大宰府に居り、

     世々その職を襲う、故に少貮を以って家号となす)」とあり。

  * されど道長の系図に長家の子 長頼おらず。

3、鎮西奉行 少貮 歴代系図
  1資頼−2資能−3経資−4盛経−5貞経−6頼尚┬7頼高
     (法名 覚恵)              ├8冬資
                         └9頼澄−10貞頼−11満貞┬12資嗣
                                       ├13嘉頼
                                       └14教頼┐
     ┌──────────────────────────────────────┘
     └15政資−16資元┬17冬尚(永禄二年正月十一日、千葉胤連の為に清福寺にて自殺)
               └18政興

*関東評定伝に「文永十一年十月五日、蒙古異賊寄せ来りて対馬島に着き、少貮入道覚恵

 代官藤馬允を討つ、云々」とあり。

4、他


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