|
塩 田・潮 田 |
解説 |
和名抄 相模国高座郡、肥前国藤津郡に塩田郷あり、 又 摂津国有馬郡に塩田庄あり、その他
諸国にこの地名ありて 数流の氏を起こす。 |
分派氏族 |
|
1,桓武平氏北条氏族 − −相模国高座郡の塩田郷より起こるか。
北條系図に「義時−重時−時重┬時茂−(塩田)国時(陸奥守、高時滅亡の時自害)−俊時(高時滅亡の時自害) |
2,信濃の塩田氏 − − 小県郡の塩田庄より起こる。源平盛衰記に塩田八郎高光あり、
義仲に従うと云う。
3,甲斐の塩田氏 − − 八代郡御代咲村塩田より起こる。一蓮寺過去帳に
「延徳二年十二月七日、塩田大炊助。明応三年三月二十六日、塩田
右京進」等とあり。
4,武蔵の塩田氏− −新編風土記、橘樹郡條に「塩田氏(鶴見村)、いつの頃よりか、
世々名主役をうけたまわれり。家伝によるに、彼の家は、北条義時の
三男 重時、その二男 武蔵守時茂なり。是れ 塩田氏先祖と云えり。
その子 左近将監時国なり。長男 陸奥守国時、後 入道して法名 道祐と
云う。その長男 塩田民部大夫俊時、父と共に鎌倉の合戦に自害せり。
その後は子弟も田間に落ち、微々となりしにや聞こえず。されど今
九左衛門の家、その子孫を以って伝うれば、野人となりても連綿せし
こと知るべし。云々」と。
5,磐城の塩田氏 − − 石川郡に塩田村あり、この地名を名乗りしもあらん。
結城戦場物語に塩田与三の名あり。
6,紀伊の塩田氏 − − 続風土記 阿田和村條に「慶長旧記に、塩田荘司行義と云う人ありて、
当荘を領せしに、天正年間、隣郷の守護と相論して合戦に及び敗れて 鮒田村に
逃げると云う。按ずるに、行義は、元享の文書に行慶とある人の後裔にて、数世
阿田和の荘を領せしなるべし」とあり。
7,石見の塩田氏 − − 当国那賀郡に塩田村あり、この地より起りしもあらん。
又、塩田村の鎌満城主に塩田重次郎あり。
8,豊前の塩田氏 − − 当国の名族にして、仲津郡元永村妙見社 慶長十五年の縁起に
「塩田太郎豊忠は、嘗て北斗妙見尊を信じ、采邑の山を卜し、小社一寺を創造し、
敬礼怠るなし、実に天暦六年の春なり」とあり。
又、応永の頃、塩田兵部丞、同弥七郎等あり。築城郡極楽寺城に拠る。応永戦覧に
「応永六年、大内盛見、大軍を率いて豊前を攻む。極楽寺の城主 塩田弥十郎、
同兵部丞、降る」と。
又、上毛郡に元亀 天正の頃、塩田吉種あり。
9,彼杵氏流 − − 肥前国に塩田郷あり。この地より起りしもあらん。
揖宿系図に「揖宿平次良道の娘 彼杵三郎久澄に嫁して、潮田三郎秋澄
を生む」と。この潮田氏は、塩田氏なりとの説あり。
10,中村氏流 − − 上記と同一なれど、肥前旧記には「文治五年、奥州の住人
中村平大夫家光、奥州の戦功により、藤津の塩田、佐嘉の大財村の地頭
となる」とあり。
11,薩摩の塩田氏 − − 建久の図田帳に「加世田別府百町内、社領二十五町、弥勒寺、
下司 塩田田郎光澄」とあり。
12,平群姓 − − 太宰管内志、筑前国長野宇美宮條に「武内宿禰 弟四子 平群都久宿禰博公、
右 博公の後胤 七十七世にして、博弁法印に至る。二女子あり、長女 長石村の
塩田條吉に嫁す。後胤、この家にあり」と。
又、那珂郡住吉社の旧社家に塩田氏あり。
13,清和源氏大田氏流 − − 武蔵の潮田氏にて、永禄天正の頃、潮田出羽守資忠、
その子 左馬允資勝あり、足立郡寿能城(大宮市内)に拠る。資忠は、
太田資正の第四子なり。
14,清和源氏今川氏流 − − これも武蔵の潮田氏にして、新編風土記 橘樹郡條に
「潮田村、光永寺は、字下辻にあり。禅宗の曹洞派、同郡下末吉村 宝泉寺末、
潮田山と号す。本尊釈迦坐像にして、三寸ばかり、開山は、純応と云う。この人
俗姓は、今川氏の末流にして、入野将監光興と云う人の三男なり。初め入野
三郎助某と云う。父 光興の命によりて、歳わずか十一歳の時、能登国の総持寺に
於いて出家し、その後 当国に来り、天正四年四月、ここに庵を結び、文禄四年
九月十日寂す。光興の嫡男 中務光行の嫡子を潮田左馬介光永と云う。光興 初めは
入野と名乗りしが後に潮田に改めしと云えり。これは当所に移り住みて在名を
名乗りしにや。光永 嘗て一宇の寺閣をここに営みしより、潮田山と号し、光永寺と
名づく。この光行は、北條氏康の旗下に属せし人なる由云えり云々」とあり。
15,菅原姓 − − 幕臣塩田氏にして、初め野村氏、順庵(宗信)、外家の号を称して
塩田に改むと云う。家紋 二重輪内梅鉢、丸に日向蔦。
幕府芸者の書附に「宝永六年、二百俵、医師 塩田宗信、今以って同高、
小普請 塩田宗玄」とあり。
ェ政系譜に「宗信(順庵)−宗音−宗俊−宗貞」と。
16,他
* 「ルーツ発見・名字の由来」のトップページに戻る