下   山

解説

三河 甲斐 越前 因幡 美作 伊予などに此の地名あり。

新潟県長岡市、同 新潟市、茨城県古河市、高知県安芸市に

この地名あり。

分派氏族

 

1,清和源氏武田氏流族 甲斐国巨摩郡下山村より起こる。秋山太郎光朝の子

       下山光重(光定の弟)の後胤なりと。東鑑に巻三十一に

       「甲斐源氏、常陸守 下山十郎左衛門、都合二千余騎 云々」と。

2,江戸幕臣 上記の後と云う。ェ政系譜に

       「七郎左衛門光次−弥八郎正次−平右衛門重次。家紋、三蓋菱、釘抜」と。

3,越後の下山氏 三島郡の名族にして、武田氏の末流、下山左馬介義氏の末孫

        林左馬亮村光、云々と。林を参照。

4,大和の下山氏− −翁草、鎌倉時代の武士の所領として「一万石 大和の内、下山弥太郎久茂」と。

5,伊賀の下山氏 − − 当国の名族にして、比奈知堡(下比奈知村)に拠り、北畠国司に属す。

       北畠家臣録に「高尾旗頭、八百石、下山甲斐守」とあり。

       又、「大寄合旗本、三百二十石、下山豊後守」とあり。

       又、伊勢国の四家記に「伊賀国名張郡の住人 下山甲斐守、信雄に味方す」とあり。

6,丹後の下山氏 正応元年の諸庄郷保田数帳に「加佐郡畏田庄 三十九町九反四

       歩内、十町二段二百三十六歩、地頭 下山殿。与佐郡山田郷二十七町内、

       十七町八反二百十四歩(加長宝寺領)下山殿」とある後にして、室町時代、

       与佐郡山田城(山田村字上山田 水戸谷口館山)に拠る。細川政元記に

       「永正四年、下山氏、ここにより、若狭の武田氏を苦しめたり」と。

       後、垣見筑後守(又は筑前守)居住せりと云う。

7,因幡の下山氏− 当国八上郡の名族にして、下山より起こる。当郡に下山城あり。

       又、下山五兵衛など諸書にあり。

8,備中・美作の下山氏 − − 桓武平氏 北條氏族にして、東作志に「下山氏は元来平氏にして、

       北條の裔と云う。今、湯郷村に住する下山伊介は、その裔流たり。勝間田村の本陣

       下山和十郎も、その姓正し。中河内村にその子孫多し」とあり。

       勝間田村本陣系図に「下山筑後守信定−河内守信成−半内信明−源五郎信休−

       太郎左衛門信友−六之助信昌−六郎兵衛信吉」と。

       又、伝え云う「備中の人 北條越後守氏吉、享禄年間 当国に来り、勝南郡公文庄

       菜(?)喰里井の内城に拠る。その子 筑後守清氏、地名により下山と称し、天文十三年

       十一月、尼子国久に攻められて死す。その子 六左衛門、三星山の城主 後藤氏の

       配下となる」と。

9,赤松の下山氏 美作国勝南郡山下村 井の内城主なり。下山筑後守信氏は、

       赤松氏の一族にして、その嫡子を大膳久氏、次男を源五郎氏勝と云う。

       天文年中、尼子晴久、乱入の際、信氏 久氏の父子 城山麓にて死す。

       その墓は、安蘇村八杉に有りと。

       又、源五郎氏勝(一に久勝)は、伯耆に至りて死す。

       又、久氏の子 半内正武は、浦上宗景に仕え、後に、三星山 後藤氏に

       仕えしとぞ。津山藩士分限帳に下山勘四郎 あり

10,他


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