島   津

解説

古代 島津国あり、又 和名抄 常陸国信太郡に島津郷見え、

日向 大隅 薩摩にまたがって島津庄あり。

分派氏族

 

1,惟宗朝臣姓 日向国諸縣郡に島津荘あり、この地名を名乗りしもあらん。

       当荘は、万寿年間(1,025頃)、太宰大監 平季基、その弟 平判官良宗

       と共に、無主の荒野を開発し、関白藤原頼道に寄贈するに始まる。以来、

       島津御庄と称し、摂関家の伝領として、次第にその範囲を拡張し、遂に

       薩隅日の三国に渡り、公地 公田殆どに至れり。

2,戦国以後の島津氏− −所謂、島津氏の始祖 忠久は、源姓説、藤原説、惟宗説あり。

       古文書、元暦二年(1,185)文書には、「佐兵衛少尉惟宗忠久」とあり、

       文治元年(1,185)文書に「佐兵衛尉惟宗忠久」とあり。

   *元暦二年、文治元年は、年の途中で元号が変わったので、ダブル。

       義久に至り、島津氏の威 多いに振るい、遂に九州を統一せんとす。

       されど程なく秀吉の征西に遭い、再び旧城に限られしも、以来、名君、

       賢才、輩出して常に天下に重きを成し、幕末、維新の際には、勤王、

       討幕、王政復古の大業を翼賛し、その勢力現代に及ぶ。

       系図は下記の如し。

      義久−義弘−家久−光久−綱久−綱貴−吉貴−継豊−宗信−重年−重豪−齋宣┐
        ┌――――――――――――――――――――――――――――――――┘
        └齋興┬齋彬=忠義(公爵)−忠重(薩摩鹿児島)
           └久光−忠義

      ェ政系譜に「六十万五千石余、琉球国十二万三千七百石、全て七十二万八千七百石余

      家紋 島津十字、丸に十文字、牡丹、桐」と。

3,出水家− −島津四代忠宗の次男 忠氏の後にして、六代氏久、東福寺城に移りし後、

       忠氏、従来 嫡家の本城たりし出水郡木牟礼城を領す。その子 忠直、

       南朝に属せり。子孫 出水氏へ。

       九代忠国 用久、また出水家と云う。

4,総州家 六代 氏久の兄 師久(上総介)の後なり。五代貞久の嫡子 宗久

       早世後、弟 氏久と薩摩を分かち領し、隈之城郷平佐に居城す。

5,薩州家 八代 久豊の次男 薩摩守用久の後にして、出水の亀城に拠る。

6,豊州家 −八代 久豊の三男 季久の後なり。

7,出羽家 −八代 久豊の五男 出羽和守有久の後なり。

8,相州家 九代 忠国の長男 相模守友久の後なり。

9,佐土原藩 十五代貴久の弟 忠将の後なり、ェ政系譜に

     島津右馬頭以久−忠興−久雄−忠高−惟久−忠雅−久柄−忠持−忠徹−忠寛−忠亮−忠麿、 日向那珂郡佐土原 二万七千石

     明治 子爵、家紋島津十字、丸に十文字、牡丹、桐、鳩酸草。

10,新城家 上記 以久の子 彰久の後にして、菱刈郡新城郷を領す。

11,宮城家 十五代 貴久の弟 尚久の後なり、伊佐郡宮之城郷を領す。

12,永吉家 十六代義久の弟 歳久、その弟 家久の後にして、鹿児島郡永吉郷を領す。

13,肥後 肥前の島津氏 − − 藤野文書、文保元年、将軍家 政所下文に

       「菊池荘領家職替として、日向国高知尾荘、肥前国松浦荘内早湊村等を島津義道に

       領地せしむ」とあり。

14,播磨の島津氏 島津文書 建武五年のものに「当国下揖保庄西方 地頭

       島津周防五郎三郎忠兼 云々」とあり。

15,若狭の島津家− −忠久の弟 忠季の後にして、島津系図に「忠季(若狭守)−忠経(左衛門尉)」と。

16,越前の島津氏 − − 忠久の子 忠義の弟 忠綱を祖とす。明治になり子孫男爵を賜う。

17,越後の島津氏 島津忠久、当国に所領を有す。後世、長尾氏に仕う。

       謙信配下の城持ち大将衆に島津淡路守あり。

       又、景勝配下の将に島津玄蕃頭あり。

       又 島津左京亮は 岩船に居り、出羽庄内尾浦城を島津矩久に守らしむと。

       江戸時代、米沢上杉藩の重臣たり。

18,伊勢の島津氏 忠久は、また当国にも領土を有す。須可、御庄、波出、

       御厨の地頭職なり。

19,信濃の島津氏 − − 鎌倉時代の始め、島津忠久、信濃国の塩田庄及び大田庄の地頭となる。

       薩摩の諏訪神社の記録に「信州 本社 諏訪大明神を当国へ御勧請の御由来、

       御元祖 忠久公、信濃国塩田大田の両庄の御地頭職に御補任なされ、五代 貞久公

       御伝領なされ、貞久公 信州に御下国の時、本社 諏訪大明神を薩州の山門院に請け

       下し給い 総社と御崇めなされ候 云々」とあり。

       薩摩国に諏訪神社が多いのは これによる。

20,相模の島津氏 − − 文和三年十一月二十日文書に「島津周防守忠兼(越前家)申す。相模国

       山内の岩瀬御代官殺害の事、仰せ下さるる旨に任せ、実否を相尋ね候処、云々。

       忠兼、代官 池田右衛門尉以下輩を殺害す云々」とあり。

       下って、永禄中、島津孫四郎、桑原郷を領す。(小田原分限帳)

21,武蔵の島津氏 新編風土記 久良岐郡條に「諸家系図に云う、島津主水正の

       男 左京大夫某、遠山丹後守直重の婚族にて江戸に住す。祖父 永房より

       このかた、武州 金沢の辺を領せりと。今 郡内、谷津、寺前、町屋、

       洲崎、寺分、社家分、平分などの村村を概して金沢と称し、最も景勝の

       地なり」と。

       又、小田原の役帳に「島津又次郎の知行 稲毛久本 十四貫二百匁 云々」と。

22,丹後の島津氏 − − 当国与謝郡の名族にして、伊根城(伊根村亀島の亀山)に拠る。

       天正中、島津藤兵衛、同伊織、居城せしが、十年九月滅亡す。貞和年中、

       加佐郡にありし島津下野守の末葉なりと。

23,但馬の島津氏 − − 但馬国太田文に「朝来郡、当国二宮粟鹿大社(領家染殿法印跡)、

       百町七反二百二十六歩(地頭 島津常陸入道)」とあり。

24,陸前の島津氏 島津陸奥守、仙台城に居城し、後に西国に移ると云う。

       観蹟聞老志に「仙台城云々、中古、島津陸奥守なる者、始め茂嶺城に居

       り、後にこの城に遷る。文治中、結城朝光ここに居る」と。

       又、榴岡の天神宮は、文永元年、島津某なる者、これを宮城郡国分荘

       小俵村玉碕山中に移すと伝えられる。

25,他


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