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信 太(シダ・シンダ・シノダ)・信 田 |
解説 |
和名抄、和泉国和泉郡に信太郷を収め、臣多と訓ず。シンダにて 後にはシノダと云う。和泉国志に「按ずるに小 竹田、篠の田なり」と。 又、常陸国に信太郡あり、和名抄に志多と註し、郡内に信太郷を収む。 中世以降、信太荘と称し、その地域 拡張してほとんど本郡の三分の二を 占め、河内郡にまたがる。 又、陸奥国志太郡に信太郷あり、高山寺本には、志太と記す。 また玉造郡にも信太郷あり、その他、信濃に信田庄あり。 この氏は、信田と共にシダと読んで、志陀、志太、志田と通じ用いられ、シノダ(シンダ)と訓じて、篠田と通ずれど東国にては、多くはシダなり。 |
1、常陸の信太氏 − −養老七年 三月紀に「常陸国信太郡の人 物部国依、改めて信太連の姓を
賜う」とあるように、物部信太連姓なり。一族に浮島を称号とするものあり。
物部信太連の裔と伝えられる。
中世、浮島太郎安広あり、信太郡の浮島城(浮島村)を築き、子孫 当城に拠る。
一説に木幡氏とも称す。常陸国南方三十三館の一にして、天正中、佐竹氏に滅ぼされる。
2、紀姓 − − 後世、信太氏は紀姓と称す。菅谷系図に「中納言貞雄−依頼−紀 八郎貞頼(信太郡を
領す、信太庄司)−頼康−頼高−頼房−忠貞−宗房」とあり。
新編国志に「信太、紀氏なり。その先 権中納言紀長谷雄に出づ。長谷雄の五世を貞雄と云う。
貞雄 中納言に任ず。子の維致、後に依頼と改む、河内の高安庄司たり、子の貞頼 紀八郎、
始めて信太郡の荘司たり。後、信太氏と称す」とあり。
3、桓武平氏相馬氏流 − − 奥相秘鑑に「平将門の二男 相馬次郎将国、天慶の乱に独り逃れ、その子
小太郎文国は、常陸信太郡浮島大夫に依頼し、子孫 相馬、或いは信太を混称す」とあり。
将国は千葉系図に「信田小二郎と号す」とあり、相馬系図には「小太郎」とあり。
又、志太と書し、将門末子、純友の養子 志太小太郎裔などと云う。
4、藤原姓− −信田なり。藤原氏なりと称す。浮島大夫は物部信太連の裔と云い、又 藤原姓とも云う。
5、美作の信田氏 − − 東作志、東北條郡三輪庄 原口村に小太郎堂あり。「信田小太郎像一体、
束帯の木像。最古の像なり。同 乳母の像 一体、下げ髪にして太刀を右の手に持つ。
信田小太郎は、いかなる人と云うことを知らず。或いは相馬将門の子なりとも云い、又は
源義朝の弟とも云う。以上は里人の所伝なり。云々」と。
6、他
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