柴   田

解説

和名抄 伊勢国三重郡に柴田郷を収め、之波多と註し、又

陸奥国(陸前)に柴田郡あり、之波太と註し、郡内に柴田郷を

収む。その他 三河 常陸 下野 陸奥などにもこの地名存す。

分派氏族

 

1,奥州の柴田氏 柴田郡の豪族の後なりと云う、但し 後世は橘姓と云い、

       或は藤原姓と云う。

       鎌倉時代、芝田次郎あり、東鑑に「羽林頼家、度々 芝田次郎を召す。

       病と称して至らず、ここに於いて正治三年九月四日、宮城四郎をして

       柴田城を攻む。時に工藤行光の従者 藤五、藤三なる者、東奥より鎌倉

       に返る。隅々これを白河関に開き、ここより往きて宮城の軍を助け、

       その城を抜く。ここに於いて城主遂に亡ぶ」と。

2,橘姓 −奥州柴田の名族なれど、上記 芝田次郎の族裔か、詳ならず。

       東鑑巻二十五に「芝田橘六郎兼義」を載せ、太平記巻二十八に

       「柴田橘六が承久二共御の瀬を渡す云々」とあるによりて、当時 橘姓

       なりしや明白なりとす。この族裔、諸国に多く、芝田とも柴田ともあり。

3,藤原姓四保氏流 − − 地名辞書に「柴田四保氏は、結城の庶流とも伝われば恐らくは

       常陸真壁郡の村田、四保の一族ならん。村田、四保は、小山朝政の四世孫、

       朝村を祖とすと云へば、正治三年の芝田次郎滅亡の後、四保氏これに代れるなり。

       小山と結城は、一祖両派の家なり」とあり。

4,橘姓大河原氏流 − − 江戸幕臣 柴田氏なり。笠置城に籠りし大河原源七左衛門尉有重の

       後なりと云い、橘姓と称す。ェ政系譜に「家紋、割剣花菱」と。

5,秀郷流藤原姓下河辺氏流 常陸発祥の柴田氏にして家伝に

       「下河辺行平の男 行縄(行綱)より出づ。常陸国鹿島の柴田に住し、世々

       鹿島神職たり」と。ェ政系譜に「家紋 上藤の内一文字、三雁金、撫子」と。

6,羽後の柴田氏 − − 当国雄勝郡の名族にして、松岡城に拠る。天文の頃、柴田平九郎あり、

       小野寺輝道に討たれる。(永慶軍記)

7,秀郷流藤原姓佐野氏流 − − 佐野系図に「佐野太郎国綱の子 行綱(芝田六郎)」とあり。

       田原族譜には「佐野安房守実綱の四男 行綱(柴田六郎、多田柴田に住す、よりて

       氏となす)」とあり。

8,藤姓(武蔵) 新編武蔵風土記、大里郡條に「柴田氏(三つ本村)、藤原姓

       にして、家紋は、二つ雁金、及び下り藤の中に三つ引なり。先祖詳なら

       ず、中古の祖 右馬助は、上野の人にて、北条氏直に仕う。後 当所に土

       着しェ永六年没せりと。所蔵の文書によるに、武田織田の両家にも仕え

       しと見えたり。世々地頭より苗字帯刀を許され給米二口を与えり。家系

       をも蔵せしかど、萬治二年火事で失いしと云う。今 鎧二領を蔵す」と。

9,武蔵の柴田氏 − − 新編風土記に「近古の初め、三右衛門あり。その父は、春清寺の

       中興開基なり」と。又、足立郡條に「柴田陣屋(向山村)、御入国の時、この辺

       大谷領の村々にて、柴田七九郎康長に采地を賜れり。それよりここに住し、筑後守、

       和泉守、総て三代住せしが和泉守に至りて江戸に移り、陣屋を取払う」と。

       又、下谷区車坂町の柴田氏は、御府内備考に「右、先祖の儀は、山城国生まれにて

       吉兵衛と申す者にて、南光坊大僧正様御下りの節、御供仕り罷り下り、東叡山

       本覚院にならせれ候節、御長屋に於いて木具類御用向け相勤め罷りあり、尤も

       御家来に之あり候由に御座候。正保年中、久遠寿院宮様御下向の節、左衛門と称す者

       御供仕り罷り下り、云々」とあり。

10,遠江の柴田氏 磐田郡の名族にして、長禄二年十一月六日、光明寺洪鐘の大檀那にあり。

11,清和源氏小笠原氏流 − − 家譜に「小笠原大膳大夫政康の三男左京友政を祖とす。その子

       左京政成(大平城)−左京政秀、弟 丹後守政忠−郷左衛門政之−七九郎康忠(孫七郎、

       五千石)−筑後守康長、家紋、下藤の内に一文字、丸に三階菱、丸に五形」と。

12,藤原姓 ェ政系譜に「柴田政因−政恩−政方(家治に拝謁す)−女子、家紋 下藤の内一文字」

13,清和源氏(尾張)− − 尾張国愛知郡の名族にして、一色城(一色村)に拠る。同村の神蔵寺の

       筆記に「柴田源六源勝重、在世の頃、この寺を創建し雲岫麟棟和尚を請じて

       開祖とす、勝重は、文亀三年七月二日に卒して、霊元院殿天信了運大居士と云う」と。

14,清和源氏斯波氏族 この氏は家譜に「始祖修理大夫 義勝は、斯波の支流に

       して、越後国柴田城に住せしより家号とす」と。

       その孫 権六 勝家、信長に仕え名あり。

15,藤原姓八田氏流 − − 近江の名族にして、八田氏系図に「丁野右衛門介家治の子 家広、

       柴田林介と改む。室は今西村の柴田九大夫」とあり。

16,丹波の柴田氏 − − 当国船井郡桧山城(桧山村)は、柴田氏の居城なりしと云う。

17,橘姓(豊後)− 当国の名族にして、後世 大友氏に仕う。

       朝日嶽の城主に柴田遠江入道紹安あり。家紋 三ふさ橘。

18,中国の柴田氏 − − 尼子氏の家臣に柴田勝之亟勝明あり、源氏と称す。その子 勝職、

       浮田氏 配下の花房助兵衛に仕え、その子 六郎左衛門勝辰は 小早川秀秋に仕うと云う。

19,筑前の柴田氏 太宰菅内志に柴田伊賀守あり。又、筥崎宮神領配分に

       「二石二斗二升餝座 柴田吉右衛門、一石五斗五升余伶人 柴田甚七、

       二石六斗七升 柴田久右衛門、一石一斗余権少 宮司 柴田与作、一石

       三斗 柴田与六、四斗四升余 柴田茂平、一石九斗余 工匠 柴田利平」とあり。

20,他 


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