解説 |
備前国に世良荘あり (鎌倉期)。 |
分派氏族 |
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1,大江姓毛利氏族
− − 安芸国高田郡の名族にして、先祖を見付次郎元氏と云う。毛利弘元の庶子なり。元就の時より、その家を見付と号せられ、後、
吉岡の号を授く。その子
元正、その子 元綱に至り、毛利輝元より世良を賜う。元綱は、転封の際、輝元に従いしが、故ありて、故郷に帰り
住す。その子
元重、農民となり、郡の大里正(大庄屋・大名主)となる。家に系譜、及び元就の自画肖像を持伝う。正徳六年、徳山侯、この肖像
画を借覧後、二重の函を製して返さる。子孫、多治比村に住す。
又、一族広島にあり。芸藩通志に「矢賀村
世良氏。先祖 宗兵衛元宗は、高田郡多治北村の人、慶長十六年、府に出で松原町
(今の愛宕町)に居る。その子
宗隆、今の地に移る。その子 宗林、人の為に巷を広くす。よりて大通の宗林と称す。今に大通を以って家号にも土地の名にも
呼べり。今の四郎左衛門に至る九代、里職を勤む」と。
2,その他
安芸国の世良氏 − − 芸藩通志、高宮郡條に「世良氏。上深川村、先祖世良右衛門尉定正、信濃より来たり住す。その裔
三右衛門、ェ永年中、里正となる」と。
又、「二町目、伊予屋。先祖は尾張中村の人、世良を氏とす。弥八郎と
云う者、始めて吉田に来たり住し、その子
喜右衛門、天正年中、本府に移り、元和
ェ永の頃には、大年寄を勤め、その後、町組頭たる者あり。初めは、薬、後、織物を売る。今の金兵衛まで八代」と。
3,三吉氏族
− − 備後の世良氏にして、当国の大族、三吉氏の族なり。芸藩通志に「上里村
世良氏。先祖 世良大夫は、比叡尾城主 三吉兼範 五世の孫なり。原村八幡宮の奉祀たり。十一世、久左衛門に至り、当村に社を移す。
世良大夫より、今の摂津重清まで、二十世」と見ゆ。
4,防長の世良氏−
− 上記何れかの後にして、長州侯に従って移る。幕末、世良修蔵あり、東北征伐の際、参謀たりき。
5,他
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