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瀬 尾(セノオ・セオ) |
解説 |
栃木県今市市にこの地名あり。 又、埼玉県飯能市、鹿児島県薩摩郡下甑村のは、セビと読む。 |
1、備中の瀬尾氏 − − 当国の名族にして、保元物語、官軍勢の條に「清盛に従う人々には、
備中国の住人 瀬尾太郎兼康を始めとして六百余騎 云々」とあり。
又、平治物語、侍賢門の軍に「大将軍は、平左衛門佐重盛、侍には瀬尾太郎兼康」とあり。
尚、源平盛衰記には「備中国住人 妹尾太郎兼康を大和国の検非違所になして、数百騎の
兵を相副えて、下し遣わしたれども、大衆それにも恐れず、蜂起して押し寄せ、鞭は
打ち落とし、兼康の家子 郎等の首 二十六斬って、猿沢の池の端に掛けたり云々」とあり。
瀬尾でなく、妹尾とあり。
この氏の出自、詳ならざれど、後世 おおくのものには、平姓とす。而して、平繁盛の
四代の孫 兼秀、初めて瀬尾氏を称すなどと伝う。
2、美作の妹尾(瀬尾)氏− −当国勝田郡吉ヶ原の妹尾氏は、平繁盛の四代の孫 従五位上 兼秀に至り
瀬尾と号し、後、妹尾に改む。兼秀 二十七代の孫 重兼、流浪して木知ヶ原に来る。
百五十六旧家の一なりと(名門集)。
幕末、正義党に妹尾三郎平あり、子孫 苫田郡知和村にありと。
3、下野の瀬尾氏 − − 日光本宮社家に瀬尾神主あり。
4.医師 瀬尾氏 − − 江戸の医師に自得軒 瀬尾長圭あり。
5、他
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