解説 |
武蔵 上野 下野 陸前 陸奥 羽前などに此の地名ありて、この氏を起こす。 新潟県十日町市にこの地名あり。 |
分派氏族 |
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1,清和源氏足利氏流
− − 下野国那須郡関根村より起こる。先祖を広澤重義と云う。新編武蔵風土記に「鎌倉将軍家に仕えし人にて東鑑にもその名見えたり。
それより数代の後、重豊なるもの、下野国那須郡関根村に住す。それ
より関根を以って氏とす。重豊の孫
重隆は、左馬頭政氏に仕えり。政氏
武蔵国久喜郷の館に住せし時、重隆 従い来たりて、当国 埼玉郡青柳村に居住す。後
天文十八年、久喜の甘棠院再建の時、この人 力を尽くして助けを為せし故、その時の棟札に、重隆及びその子
重延の姓名を記しありとぞ。今この棟札は、伝わらず。重隆は、永禄十二年
二月十六日卒す。重延は、後
筑後と号し、慶長十七年八月二十三日卒す、それより三代目彦右衛門の子
小左衛門なるもの、その弟 武兵衛に家を譲り、おのれは江戸へ移りて仕官せり。この時家に伝えし、文書
系図等は、小左衛門の方に持ち行きて、今
子孫蔵すと云う。十次郎は、武兵衛より四代の後なり。また、雨宝寺境内に五輪の石碑二基あり。
これこの家の祖先の墓碑なりと云えど、文字漫滅して読むべからず」と。
又、埼玉郡裏慈恩寺村に関根氏あり、
新編風土記に「先祖
関根織部勝直は、広澤尾張守重信の二男にして、太田氏房に従い、後
高野山に入りて死す。勝直の子 満親は、幼年より隣村
上野村宝性寺に入り、成長の後 民間に下り、慈恩寺村に移り慶長の頃、表慈恩寺、及び当村、且つ
花積村等 三村の内にて、数十石の地を開発し、元和八年二月十二日死す。それより数代を経て今の左衛門
に至れり。彼の祖父所左衛門、奇特の聞こえありて、ェ政三年、時の
領主
松平大和守より苗字帯刀を許し、且つ、その行いの奇特なるを褒賞せりし由、孝義録にも見ゆ。又、青柳村に関根氏の旧家ありて、
広澤氏より出でしと云う。同家なりや。されど、その伝える所の名は
互いに異なれり」と。
2,清和源氏多田氏流
− − これも武蔵の名族にして、粕壁宿(春日部)に存す。新編風土記に「その先祖を尋ねるに、多田満仲の末葉にて、始めは多田
と称せりと云う。系図を失いたれば、その詳なる事を知らざれど、家記
を謁するに天文年中、多田新十郎なる者あり。甲斐の武田に仕え、諫言、
主の意に違えるを以って退身し、岩槻城主
太田美濃守資正に従い、それより十郎氏房の代に至り、永禄十二年、薩?山に於いて、北條
武田合戦の時、氏房より北條へ援兵を差し向ける時、新十郎
その内に加えられしに、戦功衆に抽たれば、氏政より感状を賜う。その後、いずれの
合戦の事にや、太田氏の将士
抜群の功ありしかば、上杉謙信より三楽へ感状を送らる。その文に関東根元の武士と記せり。三楽、面目に思い、
喜悦斜ならず。今より予の旗下の士、関東根元の四字を摘で、関根と
名乗るべしとて、戦功の者
数人を抽出して、関根の氏を与う。新十郎もその一人にて、この時より多田を改めしと云う。されど、それより前、
関根氏の者、ままあれば、うけがい難きことなり」と。
又「岩槻落城の後、当所へ引篭もりて村民となり、男子三人を儲く、
八郎左衛門、帯刀、左京之助と称す。よりてこの辺、関根を称する者
あまたあり。帯刀の子孫
今、与五衛門と云う。左京之助の家は子なくして跡絶えたり。八郎左衛門は、即ち、次郎兵衛の先祖にて、ェ永九年
七月十七日卒し、道詮と号す。それより連綿として子孫相続し、或は
次郎兵衛、或は八郎左衛門と称し、九世にして今の次郎兵衛に至ると
云う」と。
3,その他武蔵の関根氏
− − 新編風土記、埼玉郡條に「関根氏(粕壁宿)、先祖 某郡内関根村を領し、即ち居住し、在名を以って関根を称すと云う。その
後
真蔵宗氏なる者、時の兵乱を避け当所に来たりて隠棲す。宗氏卒後、その子父の菩提の為かれの墓所へ庵室を結び、真蔵庵と名づけ、その後
願い上げて一寺とすと云う。今の真蔵院
これなり。真蔵より数代を経、天正年中、図書と称せし者、北条氏に従い戦功に因りて、氏繁より感状
を賜い、且つ、鱗の紋を許さる。云々」と。
又、深谷上杉家譜代の家臣に関根彦兵衛あり。
4,岩磐の関根氏
− − 伊達郡西根 東根六十六郷惣社 亀岡八幡宮神主に、関根讃岐あり
(伊達郡神名帳)。東根注連頭なり。又、田村郡に関根氏あり、田村郡上行合館
(高瀬郡上行合)に拠る。田村氏の世臣なりしが、関根綱時に至り、田村氏没落により帰農す
(関根系図
)とぞ。5,桓武平氏
− − 伊勢発祥にして家伝に「伊勢守俊継より出づ」と云う。ェ政系譜は平氏秀衡流に収め「庄兵衛良郷−孫左衛門良昌−勘十郎昌永
−孫十郎良近−内蔵助良意−良恭、家紋
揚羽蝶、抱澤潟」と。6,他
* 「ルーツ発見・名字の由来」の
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