里   見

解説

上野、備中などにこの地名存す。

この氏は此れらの地名を負いしにて、数流あり。

石川県金沢市にこの地名あり。

分派氏族

 

1,清和源氏新田氏流 上野国碓氷郡里見村より起る。新田義重の三男 義俊の

              後にて、大新田流と云う。尊卑分脈に

  義俊−里見義成−義基−義秀(二郎)−忠義−義胤−基義−家兼−家基−義實−成義−實尭−義尭−義弘−義頼−義康−忠義。

      *天正十九年 大久保相模守忠隣の縁座によりて、伯耆国に流され忠義

       元和八年死す。房州 里見氏 亡ぶ。

2,氏義流 義基の長男にして、一本里見系図に

       「義基の男 氏義−重氏−時義(新田義貞に従い、延元二年、三月六日、

       越前金崎城にて自害)−義氏、弟 義衡(鎮西将軍供奉)」と見ゆ。

3,義秀流 −里見義成の男 義直の嫡子の後にて、

       「義秀(太郎)−義綱−経成−時成(伊賀守、義貞に従い、延元二年、

       正月十一日、越前金崎合戦に後陣となり、瓜生義鑑房と共に討死)

       −義益(義貞に属す)」と。

4,幕臣里見氏 ェ政系譜に「家紋、五七桐、十六葉菊、二引龍、丸に二引」

5,室町幕臣 永享以来、御番帳に「五番、里見伊賀入道」と。文安年中五番帳

       もこれに同じ。

       又、長享江州動座着到に「五番衆、里美兵部少輔、同 源七郎」と。

6,筑後の里見氏 懐良親王供奉の臣、里見十郎の裔と云う。新田系図に

       「里見左衛門大夫氏範の義子、遠江守鎮景、実子 里見丹波守成長と

       争う」とあり。

7,豊前の里見氏 − − 当国京都(ミヤコ)郡の名族にして、応永 正長の頃、里見義方、

       応仁の頃に里見義衝あり。

8,美濃の里見氏 − − 尊卑分脈に「義直(里見判官代、美濃国圓教寺の地頭職、承久の乱の

       勲功となして 拝領す。よりて当国に住す)−頼成(里見二郎、圓教寺内 平野村

       地頭)−経頼−基成」とあり。

9,越後の里見氏 魚沼郡城峰城は、新田義貞の臣 里見義氏、金ヶ崎より逃れて

       ここに城を築き節黒城と呼ぶと云う。

10,武蔵の里見氏 − − 当国橘樹郡西寺尾村に里見義高の墓あり。新編風土記に

       「観音堂の右にあり、これも村民 於入道の墓と云う。五輪の石塔なり、台石は

       失いて五輪ばかりあり。もとより文字は無し。その前には一間四方の祠あり、

       何の頃か、小児疱瘡の類、その外 何病にても悩める者は、この墓に祈れば必ず

       験ありと云えり。按ずるに、里見九代記に里見實尭の子 義尭と云う。後、法体と

       なりて里見入道と号せり。この人 上総国久留里の城にありて、数々諸将と合戦あり。

       天正二年六月一日、六十三歳にて逝せり。ここに云う所の里見義高は、もし同人にや、

       されど、されどかの人 この辺を領せし事は他の書に見えず。又、天正の頃は、

       この辺皆 北條に属せしかば、里見の領地あるとも思われず。全く別人なるも知る

       べからず」とあり。

11,常陸の里見氏 多賀郡手綱郷朝香社棟札に

       「応永二十三年、当郷地頭 里見源基宗、寺岡平義之」とあり。

12,陸前の里見氏 − − 大崎家の重臣にして、四老の一人なり。色麻郡(加美郡)狼塚城に拠る。

       伊達成実記に「里見紀伊守」と、又、奥羽旧記に「里見義成の二男 新田刑部義景(

       奥陽軍秘録には、義成を隆成と書し、義景を隆景と書す)、義隆の寵眷を矜り、

       讒諂百出、挙国目を側てて、これを視る。伊場野外記の子 總八郎、美色ありて、

       義隆、又これを喜ぶ。云々」と。

       又、里見勘四郎元勝の子 十左衛門は、紀伊の徳川頼宣に仕え、後、伊達藩に帰す。

13,羽前の里見氏 最上分限帳に「長崎城主 里見民部」と。民部は内蔵介の弟

       にして、後に上山城を賜う。義光物語 上山合戦條に「里見越後守在城」

       とあり。又、内蔵介の子に 勘四郎元勝あり。

       後風土略記に「慶長五年、直江山城守に攻め囲まれしが、終に落ちず。

       後、里見の家 一門、残らず五百余人、義光公の勘気を蒙りて立ち退く」とあり。

       又、天童家臣に里見九郎兵衛あり。

       又、永慶軍記に「天正八年、東根の城主 二郎三郎は、天童の次男なり

       しが、家臣 里見源右衛門尉 心変わりして、東根を打って 御味方に参

       り候らわんと山形に注進す。義光聞き給いて、楯岡の奥山より歴廻りて、

       里見の要害、野川へ加勢を入れらる。この時、天童の郎党、蔵増安房、

       鈴木新左、遠藤観音寺の者どもまで、心替れば、里見の勢 程なく二千

       余人となりて、天童、東根、同時に落城しけり」と。

       その後 里見薩摩守景住は、慶長中、東根城主となる。

14,他


* 「ルーツ発見・名字の由来」のトップページに戻る