佐   々(ササ・サッサ)

解説

上総、伊賀、播磨、肥前などにこの地名存す。

この地より起りしもあらん。 

1,佐々木流 浅羽本 佐々木系図に「佐々木信綱の三男 泰綱の子 頼起(佐々、

       三助僧都、一本 良輝)−時綱(四郎)」とあり。

       又、中興系図に「佐々、宇多源氏、本国 近江、紋、四目」とあり。 

       京極殿給帳に「一万石 佐々九郎兵衛。二百石 佐々彦兵衛、

       百五十石 佐々五郎右衛門」等の名あり。子孫、丸亀京極藩の重臣なり。

2,上総の佐々氏− 天正の頃、佐々駿河守ありて、亀ヶ城を守る。房総冶乱記に

       あり。

       家譜に「佐々木信綱の男 加地信実の八男 氏綱、上総国 佐々の庄に

       住せしより家号とす」とあり。家紋、棕櫚の葉、香図。

3,菅原姓余語氏流 − − 佐々系譜に「改 源氏。盛政(余語右衛門大夫菅原入道梅哲。

       先祖は、本国 近江 余語庄の人なり。盛政の五代に至り、三河国 衣の

       城主なり。信長公治世の時、盛政 最初に属従す。)−長盛(嫡男、衣城主、

       信長公の諱字を賜う)−徳丸(衣城主、十一の時 長盛死す。後に盛広と

       号し、十九歳、信長公の甥と口論し、忽ちこれを討ち、流浪して佐野

       天徳寺に隠る)。長盛の弟 成政(三男、菅原内蔵助、後に陸奥守と号す、

       信長公の命により、佐々氏に改む。始め尾張国春日井郡平城を占め、

       天正三年九月二十日、越前府中を領し、同七年春、越中国を賜い、砥山

       城に拠る。成政 男子無し、故に信長公の命により、同国 益山城主 神保

       安芸守氏春の子 清十郎を養い、その娘をこれに嫁す。氏春の没後 清十

       郎、改めて安芸守と号す。信長公の薨後、成政 秀吉公に背く、それ故に

       越中陣あり。成政、命を乞い、高野山に登る。秀吉公 これを許し、堺

       一万石を賜う。同十五年、秀吉公 肥後国を授け、五十万石余を領す。

       時に一揆蜂起す、ここに於いて秀吉公、成政に示すの事、数条を記し、

       同 十六年五月十四日、攝津尼崎に於いて誅伐せらる)。弟 正之(四男、

       坂井久兵衛と号す。甥、盛広、流浪の後、信長公 正之をして衣城主とな

       す)。その弟、某(坂井又三郎、相継いで衣城に拠る。秀吉公、故ありて

       殺禄せられ、城を避けて馬廻りとなる云々)。成政の次女は、関白従一位

       鷹司信房公の夫人、生む所の娘、即ち、家光公の夫人、中丸殿と称す。」

       とあり。

4,越中の佐々氏 − − 三州志 新川郡戸川條に「成政越中守護たる時、佐々与左衛門

       成之これを守る」と。

       又、同 有金條に「成政の将 佐々喜右衛門居せり」と。

       又、同 升形山條に「佐々新左衛門拠れり」と。

       又、「慶長二年、秀吉公 守山より富山に転じ給う時、佐々長種を留めて

         この城を守らしむ」とあり。

5,加賀の佐々氏 − − 佐々系図に「成政の弟 佐々勝右衛門長治−孫十郎成治(攝津

       武庫郡鳴尾村、三千五百石、黄母衣の士)−甚右衛門(秀頼公に仕う。

       大阪の役、五月七日戦死。子孫 加州にあり)」と。

       加賀藩給帳に「百三十石(紋 丸の内に棕櫚の葉)佐々正益。百五十石(同)

       佐々早之助。百五十石(同)佐々右衛門」とあり。

6,藤原北家上杉氏流 − − 上総国佐々庄より起こるか。

       上杉系図に「上杉憲顕−安房守憲方−憲定(安房守、号 佐々入道)−憲基」

       とあり。

  *憲方,憲定,憲基は、上杉の嫡流にして、関東管領なり。佐々を称する人あらば、

   側室の子孫なり。上杉の家紋は、竹(篠)に飛雀。

7,羽後 出羽の佐々氏 − − 置賜郡の名族にして、天文年間の古文書に

       「下長井庄こすけの内、佐々五郎兵衛分、あさみ在家一間、草刈在家

       一間 云々」とあり。

       又、最上郡人に佐々善兵衛俊信あり。

       又、羽後 秋田城介配下の将にも佐々氏あり(永慶軍記)。

8,美作の佐々氏 − − 東北條郡公卿郷知和村 延宝三年、長義判書に

       「佐々太郎右衛門尉」あり。堀坂村の佐々と同族なりと。

       又、勝田郡湯郷の佐々氏も同族にして先祖 佐々孫五郎 信州川中島にて

       森忠政に仕え、当国津山に来たり、後、東北條郡に移り、更にこの地に

       来ると云う。

9,佐伯姓 − − 大神氏の後と云う。豊後発祥の名族にして、中興系図に

       「佐々。佐伯、本国 豊後、紋、棕櫚」とあり。

10,嵯峨源氏松浦党 − − 肥前国松浦郡佐々村より起こる。下松浦党の一にして、

       永享八年十二月二十九日の松浦党一味同心連署に佐々氏あり。

       又、大村藩郷村記に「多以良村の内、七ッ釜浦 佐々氏代々の知行」とあり。

       松浦より彼杵に亘りて勢力あり。その居城なる彼杵郡広田村広田城は、

       小森川沿岸の絶壁にあり。城主 佐々清右衛門入道加雲、永禄七年、松浦

       隆信の三男 惟明を養子とす。大村貴明、隆信に早岐地方を贈る。

       これよりこの地方 松浦領となる。

11,肥後の佐々氏 − − 第3項の佐々成政、当国の国守たりき。

       菊地系図の奥書に「肥後国菊池郡城野(キノ)庄の領主 佐々正俊の男

       小竹国守佐々維一郎豊水 花押」と。

       又、地理志料に「佐々豊水は、国守成政の後にして、世々 木野の地

       一千石を食み、細川氏に客仕す」とあり。

12,常陸の佐々氏 − −加藤清正の臣、佐々直尚、その子 助三郎宗淳は、十竹と号す。

       水戸黄門漫遊記の助さんなり。

13,他


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