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斎 藤 (サイトウ) |
解説 |
藤原利仁の子 叙用、斎宮頭たりしにより、世に斎藤と呼ばれ 子孫大いに栄える。実に 利仁流藤原姓諸氏の宗族と言うべきか。 而して 加賀斎藤 弘岡斎藤 疋田斎藤 鏡斎藤
河合斎藤 長井斎藤 勢多斎藤 吉原斎藤 などの諸流あり。 愛知県西尾市に斉藤町と云う地名あり。 |
分派氏族 |
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系図は尊卑分脈に
(加賀斎藤) |
1,越前の斎藤氏 − −源平盛衰記に「利仁将軍三人の男を生む、嫡男 越前に有りて
斎藤と云う、二男加賀にありて富樫と云う、三男 越中にありて井口と
云う。彼ら子孫繁昌して国中互いに相親しむ」と。
坂井郡河口庄宮前村に春日明神あり。延喜式御前神社を転じて、改祀
したるかと云う。社伝に「斎藤氏の祖、斎宮頭藤原叙用は、当国押領使
となり下向、その子 吉信、その子 伊傳、相続して当国に任ぜられ子孫
神領を司り、ェ弘八年、興福寺の大徳下向、堂宇を建立す」と。
中興系図に
「齋藤、藤原、本国越前、紋、二筋違ナデシコ、八藤丸三本矢チキリノ
ホヤ、内麿呂苗裔、叙用末、則光後胤、東国住、称之」と。
又、南井城は、斎藤実盛の居城と云い、
又、丹生郡に齋藤加賀守義宣(吉信)の居城あり。
又、齋藤実盛首塚は、福井市桶屋小路 曹洞宗胎蔵院境内に有りと。
2,加賀の斎藤氏 − − 富樫氏の事なり。長享江州動座着到に「外様衆、斎藤富樫介
(加賀国守護)」と。富樫氏参照。
3,能登の斎藤氏 − − 当国にもこの族多し。桐原系図に
「利仁将軍−叙用(斎藤始也)−吉信(加賀守)、弟 吉宗(住 加賀国)、
弟 則高(越前守、能登斎藤祖)」と。
又、下りて、三州志、鹿島郡春木(一青庄青木村)條に「村人、昔
斎藤某居りたりと云い伝う。按ずるに、朝倉孫五郎景統(氏景の弟)、
永正元年八月六日、武衡一家の甲斐、二宮を率い、九月十三日、越前
坪江郷より入りて、朝倉貞景を襲いて果たせず。能州 春木斎藤の家にて、
同二年病死とあり。今 村人の斎藤と云い伝うる者、この人ならん」と。
又、当国 熊木城主に、斎藤安芸守あり、大坪流馭流の祖なりと。
4,越中の斎藤氏 − − 幕臣に当国斎藤氏の裔あり。家譜に
「越前権介為頼の十代 掃部允利尚の男 掃部助利章、その七代孫伯耆守
利基(越中国新川郡蛇尾城主、天正元年卒)の後なり。利基−信利
−利次、弟
利政−利則。家紋 ナデシコ、横木瓜」と。
5,越後の斎藤氏 − − 三島郡の名族にして、同郡赤田城(中通村赤田)は、斎藤
下野守朝信の居城なりき。この斎藤氏は、利仁将軍の裔にて、数世赤田
保の地頭職なり。永正中、赤田直信ありと云い、又、加賀斎藤の一族
なりとも云う。何時頃より赤田保の地頭となりしか、又、渡辺流赤田氏
との関係も詳かならず。下野守朝綱の子 朝信に至り、謙信に仕う、
四家老の一人にして、智仁勇の三徳を兼ね、名声を博し鬼斎藤の称あり。
朝信の弟 八郎、三郎左衛門などもまた聞ゆ。その子孫 米沢藩に仕う。
斎藤市之進と云うは、この裔なりと。
又、謙信配下の将に斎藤帯刀あり、能登国熊木城を守る。
又、熊木城主 斎藤安芸好立あり。
又、沼垂郡の池之端城は、新発田謀叛の際、因幡守に属す。天正十五年、
落城、城主鴨之助攻め落とされる。
又、新編会津風土記、当国蒲原郡上條組九島村條に「熊野宮、この村の
給人、斎藤外記某と云う者、神主三位大夫正光と云う者と共に、伊勢国
度會郡九野山と云う所よりここに勧請す」と載せ、また「神職斎藤丹後。
当社を草創せし、外記の後なりと云い伝う。明暦の頃、右兵衛と云う者、
始めて神職となる。今の丹後吉次は、右兵衛の六世の孫なり」と。
6,佐渡の斎藤氏− − 佐渡郡白山城主本間摂津守永州の伯父に斎藤勘解由左衛門あり。
7,会津の斎藤氏 − − 河沼郡夏井村館は、永延の頃、斎藤宗顕と云う者住すと云い、
又、蛙田村の斎藤山は斎藤但馬某、この山を領せりと伝う。
又、永禄中、斎藤佐渡宗影あり、城 重範と戦いてこれを破る。
又、新編風土記大沼郡河村條に「旧家、長次右衛門。山内四天王の一、
斎藤伊豆某の末葉なり。天正の頃、伊豆 伊藤新平と共に、山内氏勝に
仕え、毎に密謀を資く。氏勝 浪浪の後、共に家居して終れり」と云い、
又、会津郡「泥島村館跡は、斎藤久太郎某居住せし」と載せ、
又、耶麻郡木曾村條に「明暦元年この村の肝煎 斎藤孫右衛門云々」と。
8,羽前の斎藤氏 − − 最上義光配下の将に斎藤伊豆守あり、村山郡高楡館に住す。
又、田川郡清川村に斎藤氏の巨族あり、清川氏参照。
9,陸中の斎藤氏− − 盛岡新山堂の旧社司は、斎藤淡路守と云う、社領十五石を賜う。
又、幕末、盛岡藩に斎藤三平あり、経済に長じ蝦夷地開拓の急務を説く。
10,陸前の斎藤氏 − − 仙台の学者に斎藤維馨(竹堂)あり。
11,田村の斎藤氏 − − 田村郡に斎藤村あり、この地名を名乗りしもあらん。
12,常陸の斎藤氏 − − 当国久慈郡(那珂郡)静神社 社記に「神官六員、巫女八人、
神楽男五人、その一長官は、斎藤氏を以ってす」と。
桜田門外の変の志士 斎藤監物一徳(英実)も当社の祠官にして、式部文静の子なり。
又、斎藤留次郎も水戸の勤王家なり。
13,上総の斎藤氏 − − 長柄郡藻原村藻原寺は、日蓮宗の名刹にして、社説に
「建長五年、日蓮笠森寺来遊の時、藻原の郷士 斎藤遠江守兼綱、墨田
の郷士 高橋時光、法を受けて帰依する所あり。建治二年、兼綱 その
家宅を喜捨して妙光寺となし、身 入道して日朝と号す」と。
又、国志に「茂原、元 藻原と記す、荘名なり。文永元年 将軍宗尊親王、
これを駿河前司 三浦泰村に賜う。同二年 遠江の人 斎藤兼綱、その
采邑を争うに座し、これを藻原に禁錮す。時に僧 日蓮、新宗を開かん
が為、榎本の里に来たり、草庵を構えここに居り、茂原庵と称す。今の
題目堂これなり、事茂原草創記に見ゆ」と。当寺応長二年二月八日の
寄進状に「藻原郷、法華道場へ施入し奉る、色々注文の事云々。右志は、
藤原範綱、同妻子、現当二世、大願成就、息災延命の為なり。藤原範綱」
とあり。
14,下総の斎藤氏 − − 葛飾郡(今武蔵)柴又村の斎藤氏は、新編風土記に
「名主役を勤む、当村もとより貧困にして、村民等 動(員)もすれば
訴訟に及ぶ。然るに二十年前、七郎右衛門 名主となりしより勧農を専
にし、撫育を務む。これを以って風俗変革し、貢税を欠く事なし。事を
経てその俗 付近に波及するに至る。事公に達して褒賞を蒙り、白銀十
枚を賜い、一世帯刀を許され、子孫に至るまで苗字を名乗らしめられ、
村民等もよく名主の指揮を守りて風俗を変化せし事を賞せられ、米三百
俵を賜いて、老若男女に配当せしめらる。時にェ政十年九月なり。同
仁左衛門、同荻右衛門、同仲右衛門、三人は年寄役なり。七郎右衛門と
心を合わせて村の風俗を新たにせしにより、各 銀七枚を賜われり」と。
15,在原姓 − − 武蔵の斎藤氏にして、実盛の家なり。尊卑分脈に
「実遠−実直(養子)−実盛(武蔵国住人、長井斎藤と号す、或は、
在藤と号す、本姓、在原たるによる。加賀国篠原合戦の時討死。平家侍、
老後 白髪を染めて合戦せし人なり)−盛房−景房(尾張守)−景忠(左
馬権頭)」と。
長井は、当国幡羅郡長井村より起こりしにて、新編風土記に「長井庄、
長井斎藤別当実盛の旧跡あり。さればこの地に住せしにより長井と称せ
しならん。東鑑、建暦三年五月七日の條に云う『勲功の事、今日これを
定めらる、下略。和田合戦、武蔵国長井庄 藤九郎次郎』と載せたり。云々」と。
16,竹田流(下川辺氏) − − 武蔵の斎藤氏にして、尊卑分脈に
「頼基(竹田四郎大夫)−基親−基員(住武蔵国、実は下川辺左衛門尉
政義の子《秀郷流藤原姓太田小山の族》なり)」と。
又、疋田系図には「基員(斎藤左衛門大夫、武蔵国野木に住す)」と。
17,武蔵の斎藤氏 − − 当国にはその流派、甚だ多し。
児玉郡児玉町の斎藤氏− −家系一巻を蔵す。その略に「左大臣魚名の裔孫、
越前追補使 斎藤越前権介為頼二十五代の孫を摂津守定盛と云う。関東
管領上杉憲政の麾下に属し、当国賀美郡金久保の城主たり(今 その城
跡、金久保村にあり)。天文二十年、上杉没落の後、北條氏康に属して
永禄七年七月十五日卒す、法名 崇栄寺宝山道一と号す。その子 重左衛
門光透は、天正十年六月十九日、瀧川一益が、北條氏邦と金久保合戦の
時、光透 先登に進みて討死す。よりて氏邦よりその子 定広へ感状を与
う。光透は、的心了端と号す」と。 定広の時、天正十八年、小田原落
城に及び、また、その枝城も落ちしかば、民間に下りて児玉村に住し、
元和二年正月二十七日死す。泉頂院源光良水と称せり。それより子孫
連綿して、ここに住し、十代にして正右衛門に至る。家系に「為頼二十
五代定盛」と載せ、賀美郡金窪村陽雲寺過去帳に「開基、崇元院殿渓岩
英照大禅定門、享禄二年七月二日、斎藤左衛門盛光。崇栄寺宝山道一
大禅定門、永禄七年七月十五日、斎藤摂津守定盛」とあり。
埼玉郡斎藤氏− −喜右衛門新田を開墾す。先祖 民部盛秋は、上杉謙信に仕
え、後年浪士となりしに、徳川入国の後 盛秋の長男は、今泉村の名主
となれり。喜右衛門は、その二男なり。
又、村国村の斎藤氏は、家系を失いたれば由来詳ならず。岩槻太田家
及び小田原北条家より与えし文書を蔵す。宛名 渋江鋳物師とあり。
されば往古は、岩槻渋江町に住し、家康入国の後、当所に移りしなる
べし。他に虎松丸より与えし感状一通を蔵すと云う。
又、当郡に斎藤村あり、この氏の住せし地なるべし。成田分限帳に
「永楽銭二十貫文、斎藤伊賀」とあり。
秩父郡の斎藤氏− −当郡栃谷村の斎藤氏は、家系及び甲冑、古文書などを
蔵せり。家系を閲するに「藤原姓にて、先祖斎藤右衛門大夫武光の子
山城守氏、北條氏に仕う」と云う。その子 氏定、父子と共に小田原
にて討死す。氏定の弟 兼次、弥兵衛と称す、天正十七年正月二十七日、
九十一にて没す。その子 与左衛門光次 民間に下る。
又、三山村斎藤氏も、先祖は北條氏邦に仕え天正十八年、鉢形落城後、
民間に下り当村に蟄居し、数代 名主役を勤む。氏邦よりの感状、泰邦
よりの書翰を蔵す。
多摩郡関戸村領主に斎藤神二郎あり。
荏原郡の斎藤氏− −当郡新宿村の斎藤氏は、もと可満多丸と云う者の子孫
にして、その末流に蒲田左近太夫政祐と云う者あり、古 当村に居住し、
斎藤別当実盛の娘を娶り、その腹に次男 左近太郎をもうけしに、実盛
討死の後、外孫なれば、実盛の名跡を継ぎて、一旦、斎藤実政と号せし
かど、後 蒲田家に嗣子なくして、子孫断絶せんとせしにより、実政、
復姓し蒲田家の嗣となれり。されども子孫 皆斎藤と号するは、実政が
外孫のゆかりある故なるべし。その後の事詳かならず。系図に載るとこ
ろかくの如くなれども、斎藤系図にはこの事見えず。二十六代の後
武兵衛政賢に至りてこの地に住せり。政賢の妹は、時の地頭 行方義安
の妻なり。政賢の子を武兵衛政範と云う。その子 武兵衛政清、又、
その子孫 武左衛門政純、武兵衛政造の二代を経て、左衛門太夫政成に
至れり、政成は、天正十八年二月十五日没すと云う。
橘樹郡の斎藤氏− −当国開闢の頃の旧家なりとぞ。鎌倉時代の年貢の手募、
その他にも古文書数多秘蔵せしかど、洪水に流亡して、今は片紙も残らずと。
又、仁左衛門と云う農民も斎藤氏なり、彼の元祖は、修験者にて、
上泉坊と云いしと云う。この他 次兵衛と云う者、氏を当麻と云う。
これら皆旧家なりと云えりと。
足立郡のこの氏は、三つ銀杏、下り藤を家紋とすと云う。
18,幕臣斎藤氏 − − 旗本斎藤氏は、多くは実盛流と云えり。ェ政系譜 十九家を
載せたれど、その実、美濃の斎藤氏なり。
その他、斎藤氏十家を載す。
19,秀郷流藤原姓足利氏流 − − 足利有綱の子 基親(堀川院瀧口、武州 疋田斎藤の祖)と。
20,秀郷流藤原姓皆川氏流 − − 重興皆川系図に
「皆河宮内少輔宗成−宗基(長沼大隈守、母方の苗字を継ぎて 斎藤と号す)−秀隆(斎藤左衛門、
天正十六年十二月十二日、粟野に於いて 佐野と合戦、討死)」とあり。
21,上野の斎藤氏 − − 川井砦は、斎藤定盛の居城にして 那波氏に属すと云う。第17項の児玉郡
児玉町の斎藤を参照のこと。
22,信濃の斎藤氏 − − 翁草、鎌倉時代の武士の所領を挙げて「一万八千町、信州の内、斎藤弥次郎重道」とあり。
又、当国小県郡の馬伏城主に斎藤源左衛門あり。
又、大島村の郷士に斎藤六郎左衛門あり。片桐家臣にして十五貫文なり。
23,清和源氏武田氏流 − − 甲斐国巨摩郡の名族なり。又、幕臣にありて、家譜に
「斎藤法眼某の二男 善右衛門幸恭、桜井安芸守信忠の養子となり、源氏を称す」と云う。
家紋 割菱、丸に撫子。
中巨摩郡鏡中條村 八幡社 旧神官に斎藤出雲あり。
24,甲斐 藤姓斎藤氏 − − 斎藤筑後守義国の後胤と云う者あり。
又、魚名公の末流 斎藤民部左衛門正長の後胤と称する者などあり。
25,利仁裔竹田流 − − 鎌倉及び室町幕府に仕えし斎藤氏にして、尊卑分脈に
「斎藤為頼−竹田四郎大夫頼基−基康(瀧口、号 竹田四郎)−基重(前中務丞、建保四年二月二十三日死)
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*関とは 関東鎌倉幕府を云う。
嘉暦三年八月十二日文書に「奉行人 斎藤九郎兵衛尉基連」とあり。
又、近江番場蓮華寺過去帳に「斎藤十郎左衛門尉基親(六波羅奉行人)、斎藤宮内丞教親(五十七歳)、
子息 阿千丸(十六歳)」とあり。
又、文安年中御番帳に「一番、斎藤兵庫助。三番、斎藤能登守。斎藤朝日三郎、斎藤次郎、奉行衆 斎藤」とあり。
又、長享常徳院 江州動座在陣衆着到に「一番衆、尾州斎藤美濃守。三番衆、斎藤藤内。五番衆、斎藤新五郎。
右筆奉行衆、斎藤大蔵入道元茂、斎藤民部大輔、斎藤中務大輔」とあり。
見聞諸家紋に「雲に月、斎藤」とあり。
26,利仁裔赤塚流 − − 美濃の斎藤氏にして、尊卑分脈に
「赤塚右衛門大夫宗景−宗長(建久五正三十使宣云々)−景頼(鳥羽、嵯峨院下北面、内舎人、武者所、
瀧口、従五下、隼人正、右馬允、左衛門尉、承久元年十二月十三日、兄 成重の譲任により、隼人正に
任ず)−親頼(左衛門尉、帯刀、改 親繁)」とある その後裔と云う。
その略系は 新撰志、及び百家系図等によって作成すると
「親頼−親利−頼利−利行−利康−利茂−利兼−越前守利政−帯刀左衛門利長(利永、越前守)
−利藤[(越前守、明応七年没)−源四郎(早世)−利春(明応四年病死)]=利為−利茂(道三と争い破れ、
乗っ取られる)」。家紋、撫子(利政以降、それ以前は 月に雲の可能性あり)。
*利兼、利茂、利政の3人は 同名が2人いる(27項含む)。
新撰志、厚見郡岐阜城條に「斎藤帯刀左衛門藤原利永(濃陽志略に利長とす)、応永年中、古城を
修理して居住す。これ左大臣魚名公の裔孫、斎藤越前守利政(土岐左京大夫頼益の執権なり)の子にて、
後には越前守と称す。云々」とあり。
又、利永の弟に妙椿(僧・みょうちん)あり、長禄四年、兄利永が亡くなると、甥である新守護代
利藤を後見する為、加納城へ移りここにも持仏堂と居庵を設けて持是院と称し、更に美濃周辺
数ヶ国に勢力を伸ばした。後に室町幕府奉公衆となり、従三位権大僧都に昇っている。持是院家の祖なり。
系図は「妙椿=利国(利藤の弟・妙純)−利親(妙親)−利良」。
*美濃斎藤氏の系図には諸説あるが 上記が一番妥当と思われる。
27,藤原北家松波氏流 − − 日野氏の族と云う。松波基宗の子 庄九郎、長井長弘の家老
西村氏の後を継ぎ、
西村勘九郎と改む。後、長弘を殺し、長井氏を称して長井新九郎利政と称し、更に斎藤秀龍と名乗り、
入道して道三と云う。後、養子 義龍(一色左京大夫)に殺され、義龍の子 龍興、信長に滅ぼされる。
長井系図に「藤原、家紋 瞿麥(クバク、ナデシコの事)、某(長井新九郎)−道三(一に利政と云う。
弘治二年四月二十日、義龍の為に殺さる。円覚院日迨と号す)−義龍(左京大夫、後、斎藤山城守、
義輝(将軍)より義の字を賜う)、弟 道利(長井隼人正)−定利−利中」とあり。
道三の子には、右京亮(勘九郎、孫四郎)、玄蕃(喜平治)、僧 日曉、日覚、
又、女子は、土岐七郎頼充、土岐八郎頼香の室、及び信長の室(濃姫)なり。
*義龍を道三の実子とする説、又、土岐頼芸の子とする説あり。
*道三の紋として有名な紋は、二頭波。
28,清和源氏土岐氏流 − − 土岐系図に
「頼清−頼忠−持益−成頼−政房(美濃守)−頼芸−頼次−頼吉(斎藤外記)」とあり。 |
29,長井斎藤流 − − 美濃の斎藤氏なり。明智光秀の家老 斎藤利三、その娘 春日の局。
系図は「斎藤利藤−長弘(長井)−利賢(斎藤伊豆守)−利三−春日局(徳川家光の乳母)」
新撰志に「池田郡(揖斐郡)白樫村古城。城主 長井藤左衛門長弘は、斎藤越前守利藤の子にて、
土岐政房・政頼 二代の執権なり。後、白樫より文殊に移り、又、稲葉山に移り、享禄三年、
家臣 西村勘九郎(後の斎藤道三)に殺せらる。その子 斎藤右衛門尉利賢は、亡き父の仇、勘九郎を
討伐せむ事を乞いしかども、土岐頼芸許さず。ここに於いて白樫に蟄居す。利賢の孫女 春日局、
御当家に眤近し、その縁を以って 子孫 御旗本に奉仕す」とあり。家紋、撫子。
30,遠江の斎藤氏 − − 鎌倉時代、当国の士に斎藤遠江守兼綱あり。
又、宝樹院の永正六年九月文書に「斎藤加賀守」とあり。
31,三河の斎藤氏 − − 当国幡豆郡中野城(中野村)は、吉良家臣
斎藤宮内の居城と云う。
又、同郡角平村の柴戸大明神社人に斎藤氏あり。
又、宝飯郡豊川の名族に斎藤氏ありて、平家の族と云う。
32,尾張の斎藤氏 − − 長享江州動座着到に「尾州 斎藤美濃守」とあり。
又、尾張志、長湫城條に「長享の頃、斎藤平左衛門尉、同民部丞など城主なりしにもや」とあり。
33,織田氏流 − − 織田系図に「中川八郎右衛門重政−某(半左衛門)−某(斎藤中務)」とあり。
34,近江の斎藤氏 − − 康正造内裏段銭引付に
「一貫五百文、斎藤能登入道殿、江州比良木保、段銭」とあり。
35,伊勢の斎藤氏 − − 大館日記に「伊勢国 斎藤四郎」とあり。
又、員弁郡の石川堡は、斎藤助六の居城と云う。この地は 東禅寺領にして、
斎藤氏は、その坊官と云う。歴代居住せしも、応永中、寺領没収 城廃すと云う(桑名志)。
36,畠山家臣 − − 管領 畠山氏の重臣なり。北国より随従して京畿に移りしならん。
天文の頃、斎藤山城守に至り、独立割拠す。
37,和泉の斎藤氏 − − 和泉郡の大津城の守将に斎藤主膳正あり。
38,丹後の斎藤氏 − − 丹後国諸庄郷保惣田数帳に「丹波郡三重郷、一町八反二百八十一歩、斎藤三郎左衛門。
竹野郡枝保、二町七反百八十歩、斎藤弥次郎。熊野郡御品田、十一町五反三百五十三歩、斎藤弥次郎」とあり。
後世、竹野郡平井氏家臣にこの氏あり。
39,丹波の斎藤氏 − − 多紀郡の名族にして、丹波志所載系図に
「大山上村 才大夫家系。某(斎藤伊予)、弟 某(同 才大夫)−某−某(岡右衛門、
才大夫)−某(才大夫、清右衛門)−某(才大夫、儀右衛門)−某(才大夫)」とあり。
40,但馬の斎藤氏 − −康正造内裏段銭引付に
「二貫文、斎藤能登入道殿、但馬国上三郡庄坂本方、段銭」とあり。
41,因幡の斎藤氏 − − 康正造内裏段銭引付に
「三貫三百三十四文、斎藤兵庫殿、因州大杉村、段銭」とあり。
42,石見の斎藤氏 − − 美濃郡疋見西村の碁盤ヶ嶽城主に斎藤左衛門実村あり。
石見志に「斎藤実盛の支族にして 平家没落後、石見に来る。裔 伯耆守泰家、
又、筑後守居れり(家系録)。
又、高津町に斎藤長者。文化文政、浜田藩勘定頭利三藤原秀満、豊田老農斎藤勝広」と。
又、「斎藤次郎左衛門実村(寿永三年 平家滅亡後、石見に来る)−伯耆守泰家
−筑後守(板井川に居る)」とあり。
又、同郡薄原村薄原城主に斎藤隠岐守あり、実村の同族にして「隠岐園社に祀らる、
家宝 邯鄲の夢枕を蔵す。今、邑智郡市山村の正林寺に在り、枕は南天古木にて
製せらる」とあり。
43,播磨の斎藤氏 − − 天正年間、斎藤三右衛門尉利庸、当国に在りて、秀吉の軍と戦う。
44,美作の斎藤氏− −当国の名族にして、陰徳太平記に「当国の士 斎藤氏、尼子氏に属す」とあり。
斎藤玄蕃は、小田草城に拠りしが、尼子義久に抜かれる。
苫田郡馬場村に斎藤氏あり、玄蕃の裔と云う。
伝え云う「玄蕃親実、初め小田草城に居り、後、西屋城に移る。天正十年、
毛利氏の撃破するところとなり、城、遂に落ちる。親実の子 兄弟 共に備前に走る。
長子 孫市郎親治は、慶長五年 野介に帰りて死す。その子 次郎実頼、姓を小田草辺と
改め、小田草神社の大宮司となり、後、元禄年中 姓を田辺と改め、後、また斎藤に
復す。以来累世 神官にして、当代 茂士郎に至る」と。
又、津山三家の一にこの氏あり。玄蕃の後裔なりと称す。世々 大年寄役を勤め、
権威頗る強しとぞ。
45,加賀藩の斎藤氏 − − 加賀藩給帳に
「千七百五十石(紋、九曜)斎藤九内、四百五十石(紋、丸の内に桜)斎藤與兵衛、
四百石(紋、藤丸)斎藤勝左衛門、百七十石(紋、一つ巴)斎藤左太郎、
三百石(紋、下り藤丸)斎藤営四郎、二百五十石(丸の内に剣片喰)斎藤勘十郎、
百二十石(紋、丸の内に根笹)斎藤宗太郎、百三十石(紋、九曜)斎藤幸次郎」とあり。
46,周防の斎藤氏 − − 大内家臣に斎藤次郎高利(大永の頃)あり。
又、九州軍記に斎藤氏あり、宝満城を守ると云う。
47,讃岐の斎藤氏 − − 全讃史に「斎藤城は、沖村にあり、斎藤荘兵衛行長ここに居る」とあり。
又、宝鏡文書、延徳二年十月二十日の請文に「請人 斎藤修理亮秀基」とあり。
又、藤目村藤目城は斎藤下野守師郷の居城にして「師郷、云々、大西上野介と
婚姻をなす。故に土佐元親に服従す。天正六年、奈良太郎兵衛尉勝政これをうち、
新目弾正をしてここを守らしむ。その年の冬、元親、兵五千余人を以ってこれをうち、
新目弾正を殺し、而して斎藤氏に復す。これ元親が讃に入るの初めにして、香川氏、
三好氏に背くの始めなり」とあり。
48,伊予の斎藤氏 − − 当国の名族にして、河野氏に属せしが、貞治元年、細川氏に降る。
49,筑前の斎藤氏− −宗氏の家譜に「建久中、斎藤盛実、筑前の山鹿荘に居りて御牧の事を掌る」と。
又、応永二十六年六月「朝鮮の兵 云々、斎藤、立石等、兵を発してこれを撃つ」と云う。
又、その後、斎藤刑部少輔実治、斎藤安芸入道道柱あり、大友家に属す。
50,立花氏流 − − 立花系図に「治部少輔直世−修理亮親載−丹後守親貞−六郎親続−親久
−親方−親秀−純秀(斎藤平内)」とあり。
又、由布筆記に「宗茂の実母 斎藤兵部大輔鎮実の妹」とあり。
51,筑後の斎藤氏 − − 当国三潴郡荒木村に拠る。大友氏 配下の名族にして、当国の守護代
たりし事あり。豊後の斎藤氏の族にて、実を通字とす。斎藤三河守、斎藤加賀守隆実
など現れる。隆実は、大友家の執権にして、三潴郡前牟田邊を領す。享禄中の人なり。
領主附に「斎藤三河守、荒木に居り、十三町五段を領す」と。
又、開基帳に「前牟田志賀大明神、享禄元年、豊後国斎藤加賀守 再興」とあり。
又、大友記に「蒲池よりき斎藤美作作」、西念寺縁起に「斎藤美濃守」、
五條家文書、大永八年九月のものに「斎藤伊賀守殿」、都地氏文書に「斎藤三河守殿」、
筑後国志に「難波戦記、大阪冬の陣に斎藤平吉あり、真野豊後守頼包に属す。浪人
斎藤平吉は、上妻郡甘木村に住す。その子 要一郎、今御原郡本郷村に住す」とあり。
又、鈴村幸右衛門筆記に「久留米城は、斎藤別当入道藤原勝安と云う人、取立てける、
五町の領主なり」とあり。
52,豊後の斎藤氏 − − 当国の名族にして、大友氏に属す。大友記に「斎藤播磨守、斎藤重実、
斎藤兵部少輔」、豊薩軍記に「斎藤進士兵衛」など多くあり。
又、斎藤源助あり、ポルトガルに至りて死す。
53,豊前の斎藤氏 − − 宇佐郡の名族にして、天文 永禄の頃、斎藤駿河守あり。
54,清原氏流 − − 尊卑分脈に「清原頼隆−定隆−淨明−貞資−定友−信定−清定(実は
藤原以邦の子)−長定(号 斎藤、左衛門尉)」とあり。
55,対馬の斎藤氏 − − 文永の蒙古襲来の時、斎藤兵衛三郎資定あり、賊を防ぎて戦死す。
56,藤原北家近衛流 − − 美濃に斎藤大納言正義あり。新撰志 浄音寺條に「天文の頃、
斎藤大納言正義創建す。濃陽志略に『里民云う、正義は、近衛関白稙家公の庶子、
初め僧となり、比叡山にあり、自ら武を好み、還俗して美濃国に来たり、
斎藤道三に請い、その姓をまねて斎藤という。天文六年、烏峯城を築きて居る。
云々』」とあり。
57,公卿侍 − − 平安末期の武士に斎藤時頼あり。宮中警護に当たる滝口武者(滝口の武士)で、
六波羅武士でもあり、内大臣・平重盛に仕えていた。
恋人「横笛」への思いを断ち切るために出家し、「滝口入道」と呼ばれる。その後修業を積み、
高野山 真言宗別格本山の大円院の第八代住職にまでなった。高山 樗牛(ちょぎゅう)の小説
『滝口入道』で有名なり。
平家物語 巻十、横笛條に「小松三位中将維盛卿 云々。高野に年比知り給える聖あり。
三條の斎藤左衛門茂頼の子に、斎藤瀧口時頼とて、もとは、小松殿の侍たりしが十三の時、
本所へ参りたり。建礼門院の雑司 横笛と云う女あり。瀧口これに最愛す云々」と。
58、他
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