西  園  寺(サイオンジ)

解説

藤原北家閑院太政大臣 公季の後、公実の子、通季を祖とす。

通季の曾孫 太政大臣 公経、山城国葛野郡北山庄に堂宇を建立し

西園寺と云う。よって子孫 家号とす。

清華の一にして、子孫多いに栄え、その勢い、時に摂家を超えたり。

西園寺は今の鹿苑寺金閣の地にありしにて、一に北山殿と云う。

元仁元年、公経 之を創始し、実氏に伝え 子孫数世 領有の後、応永

の始め、之を足利義満に譲与し、義満 更に金閣を造営す。

分派氏族

 

1,西園寺家− −家格 清華 閑院流 旧家 、徳川時代 家領約六百石 、明治初年 侯爵

       後 公爵、明治の元老 西園寺公望。家紋 右三巴。

2,伊予の西園寺家 − 東鑑 嘉禎二年二月二十二日條に「伊予国宇和郡の事、

       薩摩守公業法師(橘公業)の領掌を止め、常盤井入道太政大臣(西園寺実

       氏)家の領に付せらるる所。それ年来、彼の禅閣 望み申さるるといえど

       も、公業 先祖代代知行。就中遠江掾遠保、勅定を承り、当国の賊徒、

       藤原純友を討ち取りしより以来、当郡に居住し、子孫に相伝せしむる年

       久し」と。

       西園寺公毅氏蔵 松田系図に「西園寺少将藤原公X公−嫡男 公高公、

       二男出家、三男 公広公(公高討死の後、還俗、天正十五年、小早川隆景、

       拝地の時、伊予国大洲に於いて生害)、四男 佐兵衛公之(清沢小原村の

       城主、その後、改めて松田覚助と号す)」とあり。

3、他 


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