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大 谷(オオタニ) |
解説 |
山城 伊勢
武蔵 常陸
飛騨 岩代
越前 能登
越後 因幡
備中 石見 阿波
讃岐 などにこの地名有り。 諸国にこの地名ありて多数の氏を起こす。 大谷の地名は275ヶ所あり、静岡以北には「オオヤ」と読む ところもあり。愛知以南は皆、「オオタニ」「オウタニ」 「オオダニ」なり。 又、熊本県上益城郡甲佐町のは「オタン」と読む。 |
分派氏族 |
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1,桓武平氏渋谷氏流 − − 薩摩の名族にして、渋谷太郎光重の子 大谷四郎重茂
(重諸)の後なり、重茂、宝治二年 伊佐郡鶴田旧城に拠ると云う。
子孫 鶴田氏を称す。
2,藤原姓大葉氏流 − − 阿波国板野郡に大谷村あり。この地より起りしもあらん。
故城記那西郡分に「大谷氏、大葉、藤原氏、家紋 丸の中に三文字」と。
3,藤原姓小野寺氏流 − − これも阿波の名族なり。故城記、上郡美馬三好郡分に
「大谷殿、小野寺、鑵の紋一文字」と。
4,清和源氏武田氏流 − −これも阿波の名族なり。故城記、上郡美馬三好郡分に
「大谷殿、武田、源氏、割菱」と。
5,美作の大谷氏 − − 勝北郡中村城主に大谷左馬助(左介)あり、
又、掘坂村天神宮の社人に大谷縫殿助あり。この大谷氏は、仁明天皇朝、
承知年間、老松山天神宮を勧請したる祭主 大谷吉定に始まり、以来
二十七代と云うとぞ。
6,桓武平氏 − − 石見国美濃郡大谷村より起こる。同村 大谷城主 大谷刑部少輔
平則は石見志に「桓武平氏 大谷盛胤の後、朝鮮従軍三奉行の一人」と。
又、那賀郡大鹿村の大鹿城主 大谷左京進平正方は、石見志に
「陰徳太平記に、文禄元年、朝鮮従軍三奉行の一人」と。
7,桓武平氏時忠流 − − 能登国珠洲郡大谷の庄より起こる。平安末期、世にときめきし
平時忠は、能登国珠洲の三崎に流される。三州志に「按ずるに今、能登の村民、
相伝う、珠洲郡大谷村は、時忠卿左遷の地と云う。その末孫とて、乗定の宗左衛門と
云う民の居住の地、即ち、卿の配所の館跡とて、今も残塹等あり。又、卿の古墳と
云うのも宗左衛門の家の側にあり、その他 卿の遺器とて今存する。又、卿の
支流とて、頼兼など名乗る者 今十有人あり。これを大谷の十二名(頼兼、則貞、
頼政、頼光、兼政、政頼、友安、吉盛、友吉、助光、助友、国吉)と呼ぶ」とあり。
これは今の西海村にして、皆、時忠の子孫と云う。又、その子孫もあらん。
8,越後の大谷氏 − − 当国蒲原郡に大谷村あり、この地より起りしもあらん。
9,藤原姓魚名流 − − 近江国野洲郡の名族にして、三上七党の一なり。三上神社
社家に大谷氏あり。
10,桓武平氏(或曰、源姓・高階氏) − − 豊臣秀吉の五奉行の一人、大谷刑部少輔吉隆(
初め吉継)は、豊後の人にして、平貞盛の後、大谷盛胤より出づと云うも定かならず。
或いは源姓と云い、或いは高階姓と云い、或いは在原姓と云う。
新撰美濃志 不破郡山中村條に
「大谷吉継の塚、藤堂家よりこれを建つ。大谷刑部少輔吉継は、石田三成に組して
慶長五年の乱(関ヶ原の戦い)にここに戦死せり」とあり。
11,秀郷流藤原姓足利流− − 下野足利郡西場城主
西場成実の子 成房、大谷四郎と
称す。その後なりと。
12,遠江の大谷氏 − − 平治の乱、源義朝の軍 敗北、その次男 朝長、美濃国青墓宿にて自害す。
朝長の臣 遠江国の住人 大谷忠大夫なる者、その首を持ち 磐田郡友永に埋めると
伝えられる。
13,武蔵の大谷氏 − − 新編風土記に「大谷氏(榛澤郡桜沢村) 先祖惣左衛門信晨、
北条氏邦に仕え小名岩崎に居住し、天正十年六月、氏邦 上野国厩橋勢
と戦う時、信晨 奮戦し首二つを捕り、感状を賜うと。信晨 子二人あり、
長男信清、二男某、天正十八年討死す」と。
又、豊島郡大谷氏、小田原役帳に大谷十郎左衛門の名あり。
14,利仁流藤原姓斎藤氏流 − − 越前国丹生郡に大谷村より起こりしか。
尊卑分脈に「竹田四郎大夫頼基−賢厳−頼成−基家(大谷二郎)」とあり。
又、この地には有名なる大谷寺あり。
15,紀伊の大谷氏 − − 当国和泉日根郡の千石堀城は、天正年間、石山合戦の際、紀州雑賀根来の
兵拠る。同五年二月、信長 南征、十六日敗走。同十二年、小牧合戦の際、根来衆徒
また拠る。翌 十三年三月、秀吉 南征、秀次の兵、当城を囲む。守将 大谷左大仁、
よく防ぎしも、筒井順慶の火箭に悩まされて陥落す。
16,遠江の大谷氏 − − ェ政系譜に「重次−定次(天正十五年
召されて東照宮に仕う)−定利
−定令−定頼−定規−定政−定則−定門−定賢−女子、家紋、丸に木瓜」とあり。
17,他
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