大   野

解説

諸国に大野郷、大野庄、甚だ多し。村名に至りては、挙げて

数え難し。

この氏はこれらの土地より起りしにて、多数の氏を起こす。

分派氏族

 

1,桓武平氏長野氏流 長野系図に「三郎左衛門久盛−兵部少輔義富(大野稗畑

       城主)−同 義清−盛晴(大野四郎)と。」

2,紀姓− 肥前国高来郡大野庄より起こる。深江文書、弘長元年八月一日のものに

       紀 有隆 見え、大野と註す。又、元享元年八月二十七日のものに紀

       頼澄見え、「大野有隆の子」と註す。この氏 鎌倉時代栄しが戦国時代

       有馬氏に従う。

3,清和源氏宇野氏流 尾張国に大野の地名甚だ多し。この氏は知多郡大野庄よ

       り起こる。源 頼親の後にして、大和源氏に属す。尊卑分脈に

       「陸奥弥六惟風−弥太郎頼章−頼清(号 大野)−頼重(承久の変、

       京方となり誅せらる)、弟 頼時−信時−親頼−頼氏−頼高−頼長」と。

4,清和源氏志波氏流 新編武蔵風土記荏原郡大井村條に「大野氏、家の家譜と

       て世々蔵せり、その譜に載せし大略に云う、志波冶部大輔義将より五代

       の孫、志波左兵衛督義敏の三男 三河守義高の時、堀越御所政知に仕え

       て大野式部大輔政家と。その子 和泉守正敏に至り、堀越御所茶々丸、

       北條早雲の為に亡びし後、明応九年八月、両上杉に乞うて、亡君の旧を

       報いんとせしが、運尽きたり、戦いに負けて、ようやく武州へ帰り来た

       り、遂に今の地を開きて住所となし、それより子孫 相伝えて今に至る

       と云う」と。

5,武蔵秩父の大野氏 秩父郡大野村より起こり、大野城に住す。同郡薄村條に

       「この辺にて大野弾正 討死にす と云い伝うれど詳ならず。この弾正は

       鉢形家(寄居)の臣なれば、天正の頃の事なるべし、郡中大野村に住せ

       しとて、その跡あり。又、一ヶ所は、中郷の内小名穴辺に出浦式部が住

       せしと云う地あり。今の名主 一郎左衛門の先祖なりと云う」と。

6,甲斐源姓 山梨郡大野村より起こる。源氏なりと云う。家紋 九曜。一蓮寺過

       去帳に「永正元年 五月十六日、大野源三」「明応二年四月二十八日、

       大野源三衛門の母」などとあり。

7,近江の大野氏 延喜式 高嶋郡に大野神社、大荒比古神社あり、大野氏の祖、

       大荒田別命を奉祀するにあらざるかと云う。

       又、甲賀郡大野村に大野宮内少輔の宅跡あり大屋敷と云う。宮内少輔は、

       六角氏に仕う、その子を右近大夫と称す。この大野氏は、甲賀二十一家

       中、山北九家の一なり。

8,美濃の大野氏 大野郡及び各務郡に大野村あり。これらの地より起りしもあらん。

9,清和源氏佐竹氏流 小田野本佐竹系図に「佐竹昌義−古屋宗義 四男大野云々、

       この六人は宗義より皆分家」と。

10,下総の大野氏 葛飾郡に大野村あり。この地より起りしもあらん。

       小金本土寺過去帳に「大野米地永高、文明。その他 大野讃岐。大野

       弥次郎。大野民部」等あり。

11,桓武平氏大掾氏流 新編国志に「大野、茨城郡大野村より起こる。石川次

       郎家幹の八子、光幹、大野八郎と称し大野に居る。その地頭たり。後

       大野経幹あり、弥次郎と称す。正和元年 鹿島の大使たり」と。

       ェ政系譜に「家伝に先祖は石川を小し、後、常陸国行方郡大生村に住するが故に

       大生を家号とし、後、大野に改むと云う。

12,平姓 − − 上記の後なり。ェ政系譜に「定成(桜田の館に於いて甲府綱重に仕う)−定良

       −定穏−定艮−定言−定俊−定懿、家紋、丸に大文字、五本骨開扇」とあり。

13,常陸信太の大野氏 − − 新編国志に「大野、信太郡大野郷より出づ。今 河内郡塗戸村に

       土岐の家人 大野某 住せしと云う。この隣村 真板 宮淵 両村に、この氏あり(何れも

       信太郡なり)。中世 土岐氏に仕えしと云い伝う。若柴石引氏の家に文書あり。

       岡見治広が贈る所なり、それに大野外記殿とありと云う」と。

14,越後の大野氏 − − 当国蒲原郡に大野村あり、この地より起りしもあらん。

       弥彦神社中條の神官にこの氏あり。

15,尾張の大野氏 − − 当国葉栗郡に大野村あり、この地より起りしもあらん。

       戦国時代、大野伊賀守治定あり、織田家に仕え、同郡大野村に築城す。その子

       佐渡守定長、その子 治長、その子 信濃守治徳なり。治長、豊臣氏に仕え一万石を

       領すも大阪の陣にて、自刃す。

16,加賀の大野氏 − − 当国加賀郡に大野の庄あり。この地より起りしもあらん。

       加賀藩給帳に「六百六十石 紋、丸の内大字、大野織之助。百八十石、紋

       丸の内に二引、大野吉左衛門。百四十石、紋 丸の内に二引、大野甚兵衛」とあり。

17,清和源氏越前大野家− −越前国大野郡大野より起こる。守護 斯波武衛家の一流を云うなり。

       即ち、斯波高経の子 伊予守義種、その子 満種、この地名を負うて大野と云う。

       その子 持種、その子 義鏡など、相継いでこの地に居り、犬山城主なり。

       中興系図に「大野、清和源氏、斯波右衛門尉義雄これを称す」とあり。

18,丹後の大野氏 − − 同国丹後郡に大野村あり、この地より起りしもあらん。

       又、当村に大野城ありて、大野修理亮の居城なりと云う。

19,播磨の大野氏 − − 当国飾磨郡に大野郷あり、この地より起りしもあらん。

       太平記に大野弾正忠氏永の名あり。播磨古城記に

       「川辺城は、川辺村にあり、赤松氏の麾下 大野氏永ここに拠る」とあり。

20,橘姓 美作国英多郡大野郷より起こる。この地 後に大野庄と云い、笠庭寺

       旧記に「吉野郡大野荘(黒米七斗)橘正房」とあり。

       又、諸国廃城考に「大野城は、大野氏 世々ここに居る」と。

       康安元年、山名時氏に落とされる。

       太平記巻三十六 山名伊豆守 美作城を落とす事の條に「大野の一族が

       篭りたる大野城」とあり。

21,出雲の大野氏 秋鹿郡の大野郷より起こる。集古文書 建武三年の文書に

       「出雲国大野庄内国主名地頭、三崎三郎次郎政高」と見ゆ。

       又、雲陽志に「大野城は、本宮山にあり、大野高直の拠る所なり」と。

       又、雲州 古城志に「林城は、大野氏の拠る所なり」と。

       又、日御碕神社社家 上官に大野氏あり、天葺根命の裔と云う。

22,佐伯姓 安芸国佐伯郡の大野村より起こる。厳島佐伯氏と同族にして、

       見聞諸家紋に「九つ杏葉」と。大永の頃、大野城主弾正少弼あり。

23,大野十番頭

24,阿波の源姓

25,讃岐綾姓

26,土佐の大野氏 − − 当国吾川郡に大野郷あり、この地より起りしもあらん。

       暦応二年、佐伯小三郎経貞の軍忠状に「大野中村の名主 荘官などの

       官軍、花園宮に与党する」とあり。当時、宮方たりしなり。

27,伊予橘族

28,大神姓

29,豊前宇都宮氏流

30,筑前の大野氏

31,島津氏流− 島津系図に「島津忠久−忠義−久経(初め久時、修理亮、号 大野。

       正嘉元年十二月十九日、御格子番を定めらる、大隅修理亮久時 一番衆

       たり)−忠宗(下野守)、弟 忠長−忠親(下野守)」と。

       又、庶流は、一本島津系図に「忠宗−貞久−氏久−元久−久豊−川久

       −国久−資久(駿河守、称 大野)」とあり。

32,松浦氏流 天文の頃、松浦肥前守興信 配下の将に大野源五郎定文あり、同

       九年八月、南、西、加藤などの将を率いて丹波守政を討ち亡ぼす。

       家紋 丸に梶葉、三扇。

33,肥後の紀姓

34,藤原姓 ェ政系譜に「良勝(越後少将忠輝朝臣に仕う)−一勝、家紋 剣菱」と。

35,他


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