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大 久 保(オオクボ) |
解説 |
大窪と通じ用いられる。和名抄 河内国茨田郡に大窪郷、於保久保と 註す。後世 大窪庄あり、又 下野国足利郡・出羽国出羽郡に大窪郷 其の他 大窪 大久保の地名頗る多く一々枚挙の暇あらず。 時代によりて両者互用される。 大久保の地名は293ヶ所あり。大窪は、43ヶ所。 |
分派氏族 |
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1,秀郷流藤原姓(大窪)− − 大窪氏は、甲賀五十三士中、二十一騎北山九家の
一なり。佐々木氏に仕う。大伴姓鶴見系図に「業俊(小川山城主)
−女子(大窪主殿助室、甲賀五十三家の内)」と。
2,源姓 −
− 甲斐国巨摩郡大久保より起こる。家伝に「源氏にして、光正、巨摩郡
大久保村に住するが故に、大久保と称す。六郎右衛門光正、武田信玄に
仕う。家紋、丸に大文字、上藤丸に大文字、丸に八本矢筈、五三桐」と。
3,桓武平氏畠山氏流 − − 武蔵国入間郡大久保村より起こる。
畠山系図に「畠山重忠(元久三年六月二十二日討死、家紋、初めは白地、
梅、雪霰)−員糴−重氏(河越内大久保を知行)−重村(大窪七郎)
−朝重」と。大久保村に城跡有り。
4,丹党(大窪) − − これも武蔵発祥の大窪氏にして、足立郡大久保村(岩松 明徳
五年文書では大窪郷)より起こりしか。井戸葉栗系図に「中村時賢
−時家−国時(大河原五郎左衛門尉)、弟 時清(大窪八郎)−某」と。
5,武蔵の大久保氏 − − 男衾郡赤浜村に大久保氏あり、新編風土記に「家系を閲す
るに、大織冠鎌足の後裔に出づ。云々。武州鉢形城主 北條氏邦に仕え、
その子 金十郎勝家、水野石見守忠貞に仕え、その子 長七満親も父に継
ぎて仕えしが、故ありて後に、土屋但馬守数直の家人となり、その子
源五郎親長の時、貞享元年 赤浜郷に引っ込む云々。これによれば全く
嫡流の如くなれど、今も水野石見守の家人に大久保五郎左衛門と称して、
同流の子孫ありといえば、何れを宗家とも定め難し」と。
6,上野の大窪氏 − − 上野国群馬郡に大久保村あり。この地より起りしもあらん。
7,宇都宮氏盛綱流 − − 下野国塩屋(塩谷)郡大久保村より起こりしならん。
宇都宮系図に「泰綱−盛綱(上総介・五郎左衛門尉)−泰貞(三河守、
高根沢、戸祭、大久保、平出などの祖)」と。
8,宇都宮氏族武茂氏流 − − 下野国那須郡武茂庄 大久保村より起こる。上記
盛綱の兄
景綱の子 武茂常陸介泰宗の後にして、宇都宮系図に
「武茂泰宗−美濃守時景−泰藤(美濃将監、住 三河、大久保祖)
−藤綱(住 三河)−泰朝−国綱(住
三河)」と。
9,下総の大久保氏 − − 香取郡(海上郡)に大久保村あり、この地より起りしもあらん。
小金本土寺過去帳に「大久保七良右衛門(文禄三年九月小田原)、大久保甚五左衛門(
水戸にて)」とあり。
10,常陸大掾氏族 − − 当国久慈郡大久保村より起こる。この地は、鹿島神宮の嘉禄三年文書に
「佐都東郡大窪郷、地頭 伊賀判官四郎」とある地なり。元亀 天正の頃、郷士
大窪伊賀、大窪駿河あり。
常陸大掾系図に「家幹(石川二郎、有十男)−某(九男、大窪、石川)」とあり。
11,岩代の大久保氏 − − 岩瀬郡、伊達郡共に大久保村あり。この地より起りしもあらん。
新編会津風土記 耶麻郡赤崎村條に「麓山神社、神職 大久保播磨、享和二年
上宮村の高村能登の譲りを受け、当社の神職となり、府下北小路町に居住す」とあり。
12,清和源氏斯波氏流 − − 羽前国北村山郡大久保村より起こる。最上系図に
「直家(左京大夫)−満直(修理大夫、応永三十年卒)−満頼(右馬頭、大窪)」とあり。
又、山野辺系図に「満直三男 右馬頭満頼、大窪殿」とあり。
13,越後の大窪氏 − − 刈羽郡(三島郡) 大窪村より起こりしか。弥彦神社船越の
神官に大窪氏あり。
14,加賀の大窪氏 − − 康暦二年、桃井氏の将 大窪忠実、河北郡高松城(内高松)に拠る。
大窪氏は、利仁流藤原 富樫氏の一族なりと云う。その後、長享二年、
大窪家長 河原組の賊を率いて石川郡富樫庄 額谷に陣す。
又、三州志同郡に「安吉(在
山島郡安吉村領)、大窪源左衛門家長築き、
天文十九年より、窪田経忠継て居たり。天正八年、この城、柴田勝家の
為に落ち、経忠 闘死して、その首 安土に於いて梟せらる」とあり。
15,三河の大久保氏 − − 当国設楽郡及び渥美郡に大久保の地名有り。
二葉松に「上和田七村 古屋敷、宇津左衛門忠茂、大久保五郎右衛門忠勝 法名
淨玄、
大久保党 代々ここに住む」とあり。
忠茂、松平家に仕え 子孫多いに栄える。
忠茂┬忠俊(五郎右衛門、宇津を改め、大久保を称す)−忠勝−康忠−康村−康任 |
16,忠俊流 − − ェ政系譜に「康任−康明−康命−康致−康ェ−康敬、千三百石、
家紋、上り藤丸に大文字、鳥居、左巴」とあり。
17,忠員流
大久保忠員┬忠世(小田原城主)−忠隣−忠常−忠職=忠朝−忠増−忠方−忠興−忠由−忠顕−忠真−忠修−忠殻=忠礼=忠良−忠礼(再)−忠一−忠言、相模国小田原十一万石
家紋 上り藤の内に古文字の大の文字
明治 子爵 |
18,和邇部姓宇都氏流 − − 駿河国有度郡宇津(宇都)より起こる。浅間神社の社家
和邇部氏の裔と云う、系図に「信親(大宮司)−信能−国能−能信、弟
勝政(右近允、
甲斐国都留郡宮下に住む)−義尊−義勝(富士六郎、宇都峯城主)−義利(宇都二郎)
−忠尚−忠成(甚四郎、住 三河大久保村)−忠昌−忠興−忠茂−忠俊」とあり。
又、「忠泰(宇都権右衛門尉)−泰親(本多権九郎)−忠親(大久保掃部助)−親信(
対馬守)」と云う流もあり。
19,大隅藤姓 − − 当国姶良(桑原郡)に大窪村あり、ここより起るか。
大窪氏系図に「藤原姓。家の名乗譲字 盛、紋章 輪の内に一本立たたみ扇子。
元禄の頃、肝屬郡大崎の地から この高山に移居す。
初代 左京(左衛門)−喜左衛門−儀長−三右衛門−盛清−盛員−盛房−與早太−養甫
−甲斐袈裟。初代左京左衛門、実子なきにより高山の人 福山織部二佑の男 喜左衛門
継ぎて二代となる。二代喜左衛門の三男 千助、別に庶家を立つ。千助 実子無きを以って
高山の人 長友勘兵衛の嫡子 嗣子となり、二代 常右衛門、また子無きにより
平岡義宜の嫡子 盛永 継ぐ」とあり。
20,藤原北家加藤氏流 − − 加藤次景廉の後にして、初め 加藤を称す。宮内右衛門忠景の時、
外家の大久保を称す。家紋、上藤丸に大文字、鳥居の内に左三巴。子孫は 小田原、
蜂須賀家の家臣にあり。
21,卜部姓大蔵氏流 − − 大久保長安は、猿楽師 金春七郎喜然の子なり。甲斐国志に
「武家補任に云う、武田の猿楽 大蔵式部大夫の子なり。天正の後、召し出され、
大久保忠隣に命ぜられ、苗字を授け、大久保十兵衛と称せしむ。家康に用いられ
八王子村 三万石を食む、後、禍心を抱き、死後、罪せられて家没す」とあり。
長安は、佐渡、石見、伊豆などの金、銀山の奉行となって その開発に尽くすも、
死後、不正が発覚し、家財没収の上、子らも処罰される。
22, 島津藩士の大久保氏
− −
利通(一蔵)は 維新の元勲なり。西郷隆盛、木戸孝允と並んで
「維新の三傑」と呼ばれる。侯爵を授けられる。その子 利和。家紋、三つ藤巴。
23,伊勢の大久保氏 − − 当国鈴鹿郡に大久保の地名あり、この地名を名乗りしもあらん。
三国地志に「鈴鹿郡の大久保砦、按ずるに 大久保伊豆守居守」と。
又、名勝志に「大久保城は 大野村字中瀬にあり、塁濠の跡存す。大久保伊豆守
城を築きここに居る。織田氏に属す。天正中、美濃岐阜の役に戦死す。その子
覚兵衛、権太夫あり。京極、池田 二家に仕う。伊豆守の墓は、本村 字一の井にあり」と。
又、三重郡にも大久保氏あり、大久保城之介は、音羽城 及び潤田城に拠る。伊勢軍記に
「永禄四年八月、千種忠治、その臣 水谷太左衛門をして これを攻めしむ。城兵 支える事
あたわず、城之介 ひそかに逃亡す」と。
又、関長門守 御家中侍帳に「戸田甚之丞組、五十石、大窪彦左衛門」とあり。
24,土佐の本山氏族 − − 当国吾川郡の名族にして、元親記に
「永禄三年五月二十日夜、長浜の城を取る。城主 大窪美作は、木塚をさして落ち退く云々」とあり。
又、「池添源之丞は、長浜の城主の子 大窪勘十郎を討取る」とあり。
25,豊後清原姓(大窪) − −豊後清原系図に
「帆足清三郎家近−家俊(大窪四郎左衛門)−某(新左衛門)」とあり。
26,他
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