大   川

解説

和名抄 三河国幡豆郡に大川郷あり、於保加八と註す。

陸中、羽後、下野、紀伊、その他 諸国にこの地名ありて

数流の氏を起こす。 

国土地理院のデーターで100ヶ所あり。

1、奥州岩清水氏流 − − 参考諸家系図に「大川氏、本名 木曾田、岩清水同族、紋 四目結、立葵。

大川某(斯波氏に仕えて三十五石を領す)−勘之丞基房(斯波詮直に仕う。天正十六年

詮直 滅亡の時 浪人となる。利直公の時、召し出され郡山 御城番を勤む)−半九郎元光

−半九郎−半九郎貞継(或いは 忠久、実は岩清水十右衛門康清の二男)−貞武(実は

下河原恒広の二男)」と。 

岩清水氏條には「姓、藤原、紋 丸の内に三蔦、三亀甲、立葵、四目結、花巻。

岩清水右京義教(先祖 岩清水某は山城男山 岩清水の人なり。以って氏とす。志和郡に来て

某より代々 斯波氏の臣となりて志和郡岩清水村、並びに傍の村に八百石を領す。終に

地名となる、岩清水館に居す。信直公 天正十六年 斯波氏 没落の時、帰降す。且つ、

功ありて旧地 岩清水など二千石を賜う)−蔵人義因」とあり。

2、源姓閉伊氏流 陸中国下閉伊郡大川より起こる。閉伊十郎行光の後裔 中村氏より分かる。

       行光は鎮西八郎為朝の子なれど、佐々木高綱の子となると伝えらる。

       浪岡系図に大川与市右衛門嘉当の名あり。

3、秋田の大川氏 − − 羽後国南秋田郡に大川村あり、ここより起こりしか。

       永慶軍記に湊檜山合戦の時、大川左衛門佐あり、檜山方として討ち死にす。

4、     秀郷流藤原姓大河戸氏流 − − 「太田大夫別当下野守行尊 孫 大河戸下野権守行方 四男、

大河戸四郎行平の長男 行俊(大川島四郎、下野中泉荘 大川島村に住す、よって氏となす)

−政光−政義(大川右京助)−政行−行元−行道(足利尊氏に従う)」と。

5、千日氏流 − − 因幡大川氏はもと肥後国の住人、本姓 千日氏、安和以来 当国に来住して

       和多理社の神職になると云う。因幡志 八束郡殿村條に「和多理、式内和多理神社

土俗大多羅大明神と云う。正慶の棟札に『神主 大川左近大輔重宗、奉行 竹内弥七郎宗勝』

と。大川は本姓 千日氏、元祖を民部と称す、延喜年中より相続す」とあり。

6、紀伊の大川氏 − − 当国海部郡大川浦より起こる。続風土記 同地旧家地士 大川孫三郎條に

「世々、この地の土豪なり。法然上人、土佐より帰洛の時、この浦に漂着し 孫右衛門の

家に留まること三十余日、自像を刻して与えらる。後、庵を作りて これを移す。

今の報恩講寺これなり。今に至って本尊厨子の鍵は孫三郎家に所持すと云う。

又、本尊を刻みし時、その余木を以って 上人自ら百万遍の大念珠を刻めり。それは

今に孫三郎の家に伝えて家宝とす。又、享和の頃、その家の棟木に古き箱を打着たるを

見出せり。取って開き見るに、木曾義仲 旗下の士 大夫坊覚明の書簡なり。孫三郎が家の

ことに預かるものとも見えず。かく秘し置し故、いかなる事とも知り難し。これによりても

その家の旧きことを知るべし。今は代々 地士なり」とあり。

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