大  河  原

解説

山城 武蔵 近江 信濃 磐城 陸前 播磨 等にこの地名有り。

それなどを負いしなり。

分派氏族

 

1,丹治姓丹党 −武蔵国男衾郡(比企郡)大河原村より起こる。丹党系図に

       経房−時房−時重(中村冠者、上中村)┬時経(中村小三郎)−時季(大河原)−時村−季村−家村。
                         └時賢(下中村)

2,有道姓児玉党 武蔵国男衾郡(比企郡)大河原村より起こりしか。

       武蔵七党系図に

       「秩父行重−行弘−行俊(平治中・1,159年)−経重−行家(大河原太郎)」と。

       ェ政系譜に「家紋、丸に堅木瓜、丸に揚羽蝶」とあり。

3,岩代の大河原氏 新編会津風土記、河沼郡勝方村條に

       「館跡、葦名氏の臣 大河原土佐簿様之丞と云う者住せしとぞ」と。

       又「仙明院蹟、天正八年、この村の領主 大河原佐渡と云う者、建立せり」とあり。

4,橘姓 − − 三河発祥の氏にして、家伝に「大河原有重(後醍醐天皇に従い 笠置城に籠る)の

       後なり」と云う。ェ政呈譜には、「橘氏、正勝−正良」とあり。

       ェ政系譜は藤原に収め「家紋、鳥居の内に割剣花菱、丸に割剣花菱、丸に鳥居、

       三菱の内に割剣花菱」とあり。

5,清和源氏 − − 近江国甲賀郡に大河原谷あり。この地より起りしもあらん。

       当国井原庄に大河原氏の砦跡(松尾川の西)あり、室町中期、大河原又太郎の居城なり。

       又太郎、大河原谷を領す。

6,美作橘姓 美作誌、吉野郡東粟倉庄後山村奥津大明神社人に、大河原隼人を載せ、

       又、大河原彦四郎(明応七年頃の人)あり。

7,豊後の大河原氏 豊後大伴姓鶴見系図に

       「為俊(鶴見伊予守、小川城主)−重俊(大河原源内の養子)」とあり。

8,他


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