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奥 |
解説 |
諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす。 国土地理院のデーターに65ヶ所あり。 |
1、武蔵小野姓 横山党 − − 源平盛衰記に武蔵横山党の人として、奥次弥太なる者あり。
2、上総の奥氏 − − 東鑑文治元年六月五日條に「上総国 住人 中禅寺 奥次郎弘長」とあり。
3、中臣姓春日社家族− −続南行雑録によるに、春日社司にして、大中臣の後なる北郷七家の内なり。
4、佐代姓高瀬氏流 − − 和泉国日根郡の名族にして、豊城入彦命の裔 佐代公姓なりと。
その裔 高瀬源次兵衛佐勝(後白河法皇の御時)の後、元弘年間 高瀬佐代忠勝に三子あり、
長男 源次兵衛勝重を奥の左近と云う、これ奥氏の祖なりと。
5、紀伊湯川氏流 − − これも和泉日根郡の名族なれど、紀州 湯川庄司 安房守政春の後なりと云う。
久忠に至り 将軍足利義尚に仕え、奥将監と号し、後、畠山高政に仕え、久国に至り
樫井城を預かり、以後 郷士たり。
6、清和源氏 小椋氏族 − − 尊卑分脈に「満季八世の孫 高屋三郎景遠−小椋孫二郎義遠(号 坂東二郎)
−義盛(奥二郎、一本に三郎)」とあり。
又、武家系図に「奥、清和源氏、武蔵守満季十二代 坂東次郎義遠の男 小椋三郎義盛
これを称す」とあり。
7、紀伊源姓− −上記の裔あり。続風土記那賀郡安楽川荘 上野村條に「旧家 地士 奥杢之助。その祖は
奥近江守盛弘と云う。清和源氏三郎義盛の子なり。長承三年、盛弘 撿使として安楽川荘
四至傍示の注文を定む。保元年中、美福門院 当荘へ入御の御供せしより、世々この地に
住す。云々」とあり。
又、伊太祈曾神社の社家に神主家 奥氏あり、続風土記に「神主奥氏、旧家にて本国
周防なり。弘治天文の頃、毛利元成、輝元の両将に仕え、後 畠山家に仕え当国に移住す。
云々、豊太閤 南征の時、畠山三郎の家も没落し、奥家は当社の社家となり云々」とあり。
8、桓武平氏 鹿伏免氏族 − − 鹿伏免盛興の子 盛時、その子 盛良、奥に改むと云う。家紋 揚羽蝶。
9、清和源氏頼政流 − − 伊賀島ヶ原一族なり。頼政の遺子 阿拝郡島原に住み、子孫多いに栄える。
その一なりと。家紋 三星に一文字、足利時代 十六葉菊を拝受すと云う。
10、伊賀服部姓 − − 伊賀服部一族にこの氏有り。平姓と称す。
11、安芸の奥氏− −芸藩通志安芸郡條に「奥氏。押入村、当村始まりしよりの家にて永正年中よりは
代々村の里正を勤め、類稀なる旧家なりと。延宝三年 失火して旧記を失う」とあり。
12、丹波の奥氏 − − 人見系図に「岩平寺城主に奥又四郎」とあり。
13、他
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