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岡 (オカ) |
解説 |
崗とも通じ用いられる、筑前の岡(遠賀)、大和の岡宮の外、 摂津 伊豆
常陸 上野
、羽後(男鹿)、 紀伊 讃岐 肥後等に この地名あり。諸国に 岡の地名ありて 多数の氏を起す。 全国に179ヶ所。 栃木県大田原市、埼玉県朝霞市、同 東松山市、長野県上田市 鳥取県倉吉市、大分県大分市、富山県小矢部、同 黒部市に この地名あり。 |
分派氏族 |
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1,清和源氏吉見氏流− − 石見国の名族にして、吉見氏の族なりと云う。その家譜に
「その祖 壱岐守、弘安五年当地に来る」と。これは吉見の祖、頼行が
弘安五年十月下旬、能登国より石見国に下着したのと同じ事なり。
2,佐々木氏流 − − ェ政系譜に「家紋 五七桐、輪違」と。
3,太泰姓 − − 蒲生家臣にして、近江国蒲生郡木津村の岡より起こる。蒲生家の
重臣に岡半兵衛重政あり、会津時代津川城 二万石を領す。慶長十八年、
観音堂を再建すと。
4,斎藤氏流 − − 尊卑分脈に「則宗(号 河合権守、河合斎藤の始め)−成実−実信
−友実−友利(号 岡太郎)」と。
武家系図にも「岡、藤原、太郎友利これを称す」と。
5,秀郷流藤原姓佐野氏流 − −
上野国岡村より起こる。「小見左京進義綱−行綱
−行清−千重−行政(岡村に住し、岡民部大夫と称す)−千隆(岡長門)
−隆範−千範−千村(家康に仕う)」と。
6,清和源氏武田氏流 − − 浅利氏の族にして、諸家系図纂 甲斐 信濃源氏綱要に
「武田義清−清光−義成(清光九男、浅利與市、家紋 扇松皮)−知義
(浅利太郎、近江国山崎、岡などの祖)」と。
7,清和源氏善積氏流− −和田系図に「善積惟家−忠頼−三郎惟頼−太郎惟信−惟義(岡源三)」と。
8,清和源氏吉良氏流 − − 吉良系図に「吉良貞義−左衛門督満義−有義(左馬介四郎、一色、
岡、長吉等の祖、積善と号す)」とあり。
9,清和源氏馬淵氏流 − −諸家系図纂 甲斐 信濃源氏綱要に「清光−武田信義−信光−信政−信時
−時綱−信宗−信武−信成(甲州武田)−信春−信澄−信茂(号 馬淵弥七郎)−信俊(
多賀彦七郎)−成俊(近江国岡地頭、刑部左衛門尉)−定俊(号 岡左内)」とあり。
10,筑後の岡氏 − − 田中家臣知行割帳に「一千石、岡五郎」とあり。
又、筑後屋山系図に「掃部入道宗源の娘、岡権右衛門の妻」とあり。
又、岡善右衛門あり。
11,紀伊の岡氏 − − 当国伊都郡柏木城は、岡氏の城跡なりと云う。同郡入郷村の旧家に岡氏あり
続風土記に「旧家 岡佐仲、高野四荘官の一なり、高野学侶より年々 高二十四石を与う」と。
又、桂本村の地士に岡四郎五郎。
又、吉仲荘の地士 岡孫太郎は、中氏の分れにて菅原姓なりと。中参照。
又、那賀郡野上荘 別院村の地士に岡左七。又、安楽川荘 上野村の地士に岡彦右衛門。
又、冲野々村「番頭、村の東川涯に番頭 岡氏の屋敷跡あり」と。
12,甲斐の岡氏 − − 岡和泉守、岡宮内丞など名あり。一族山梨郡に多く西保中村、
同 下村、隼村、柚木村などの名族にして、下柚の木村七屋敷の一に岡屋敷存す。
武田氏の族に岡氏あれば、その族か。されど、佐渡の岡氏は、藤原姓と称す。
13,安芸の岡氏 − − 猿掛城主高橋氏の配下に岡氏あり。又、安西軍策に毛利方の将として
岡宗左衛門、岡又十郎、岡信濃守などあり。
又、芸藩通志 広島の名家に「山口町弓匠、先祖 岡越前、射芸を以って、初め
蒲生家に仕え、ェ永中 来りて本藩に寓す。歳々 銀三貫匁、矢箆 十万本を賜い、
大いに弓矢を製す。子 庄左衛門 地士となる。その子 作兵衛 無状にして籍を削られ、
婿 清兵衛僅かに旧業を守る。その後 四世 猶 口糧を賜う」とあり。
14,備後の岡氏 − − 芸備古蹟志に「亀石城は、亀石村にあり、岡六郎ここに拠る」と。
15,宇喜田氏流 − − 備前の名族なり。安西軍策 備中国忍山城 没落條に
「宇喜田直家、美作の国に於いて数か所の城を攻落され、数百軍兵討ち果たされて
無念に思われ、忍山に同名 信濃守岡剛介を入れ置き、いかにもして毛利家に冤を
なすべき由聞ければ。まず忍山を攻め落さんとて、同十一月十旬に、輝元、元春、
元長、元氏、広家、隆景、二万余騎を引率して備中へ出張し、忍山を攻めんと議し
給う。云々、信濃守岡もついに討ち死にす」と。
又、天正十一年七月十一日の美作国の鈴木氏文書に岡平内亟家利の名あり。
又、幕臣岡氏に宇喜多直家の臣 岡元重の後と云う者あり、藤原姓にして、家紋、
左三巴、五七桐。
又、岡越前守貞綱あり、宇喜多秀家に仕えしが、後、去りて徳川氏に仕う。その子
平内は、明石全登の婿となり、父子共に大阪城に入りて死すと。
16,美作の岡氏− − 多くは宇喜多家臣の岡氏の後と云えど、苫田郡東田辺の岡氏は、
赤松祐五郎彦尚の後にて、その子 彦左衛門 作州に来たり、農民となる。
その孫 赤松与左衛門、岡の地に有りて岡を名字とすと云う。
又、英田郡巨勢庄 瀧大明神 神主に岡和泉あり。
又、小野氏流にあり、「小野姓にて、その祖 備中国司 参議小野好古より出づ。
好古八代の孫 左中将直方 罪を得て、備前磐梨郡那磨郷岡村に蟄居し、始めて
岡氏を称す。その子 左京亮利貞、源頼朝に仕え、文治元年同郡片脊郷 総地頭職に
任じ、片脊に居る。その後 十四世の孫 岡豊前守利基に至り、天文十六年 砥石山城主
島村貫阿弥の為に落城す。その際 利基の長子 国千代丸、二子 清丸と母子、三人を
家臣に託して去らしめて自裁す。その後 国千代丸は、辛川に住し、成長して平内利勝と
称し、宇喜多直家に属して旧敵 島村を亡ぼし、戸川安正等と共に宇喜多氏に属し、
美作国久米南條郡長岡の庄 福田丸山城に居り、作州の軍頭たり。直家の子 秀家、
備作を領するに至り、移って赤阪郡武枝の庄 白石城に居る。それぞれ秀家の諱を
賜いて、安正は戸川秀安、利勝は岡家利と改む。天正十二年豊前守に任ず。後、
従五位上に叙す。数々戦功あり、天正二十年二月、朝鮮に出陣し、かの地に没す。
子 越前守利季 継ぐ。関ヶ原役後、 徳川に仕え旗下に列し、備中川上郡の内
七千五百石を賜い、御使番に列す。後、不審を蒙りて切腹し、男 利武、また自裁す。
利季に四子あり、二子 忠兵衛、三子 平四郎、四子 喜代丸と云う。平四郎は、
岡市兵衛利行と称し、ェ永の始め 森侯の大庄屋を任ぜられ、承応二年、郡奉行下役を
命ぜらる。その子 甚左衛門重利、大庄屋を継ぎ、その子 左衛門利常、大庄屋を
受けしも遂に、貞享四年四月これを辞す。この時 森侯、利常父祖の功を以って
池ヶ原古池敷を賜い、その開墾を補助せられ、その子 平吉郎利興、庄屋役を
命ぜらる云々」と云う。
17,丹波の岡氏 − − 当国福知山町(中筋村)に岡の地名有り(今、消滅)。この地名を名乗りしもあらん。
18,伊勢の岡氏 − − 建仁 元久の頃、安濃郡に岡八郎貞重あり、岡本城に拠り、鎌倉に謀反す。
東鑑 元久元年四月二十一日條に「武蔵守朝雅の飛脚到着す。申して云う、云々、次に
安濃郡に於いて、岡八郎貞重、及び 子息伴類を攻撃す、彼輩 遂に以って敗北」とあり。
又、後世 北畠家臣に岡惟家あり、多気郡の牧城に拠り、近郷を領す。小四郎に至り、天正中、
北畠具教 三瀬に殺される時、共に死すと云う。
又、奄芸郡の土豪 川瀬広信の裔 宗光、姓を岡と改めると云う。
又、関長門守侍帳に「二百石 岡千助、二百石 岡彦兵衛、百五十石 岡勝五郎」とあり。
又、勢州四家記に「岡 儀太夫、岡 半兵衛」の名あり。
19,讃岐の岡氏 − − 当国香川郡の岡村より起る。
全讃史に「行業城、在西荘村、岡隼人行康、及び 行業ここに居る」とあり。
20, 大和源姓 − − 宇野氏の族なり。十津川郷槍役由緒に「桑畑村 庄屋 岡庫之助」とあり。
21,大和橘姓岡氏 − − 春日社文書に「応永十四年五月、平田御荘々官 岡政種」とあり。
「本姓は、橘姓にして楠氏の族也」と云う。大和の平田党の一なり、永正中、
岡弥次郎政行は、国判衆 十二人の一人にして 頗る勢力有りしが、後、衰えて
松永氏の配下の将となる。
郷土記に「岡周防守橘国高、松永に与し、天正年間 没落」とあり。
22,井伊氏流 − − 井伊系図に「井伊景直−直藤(彦次郎、岡祖)」とあり。
23,伴姓設楽氏流 − − 伴氏系図に
「資乘(設楽安芸権守、住
江州多賀)−家継(江州 岡祖)−俊継」とあり。
24,紀姓 − − 肥前国彼杵郡の名族にして、正平十七年及び応安五年の一揆連名帳に
「岡五郎紀清種」とあり。
25,藤原姓 − − 佐渡国役人帳に岡源三郎あり、祖先 甲斐より来ると云う。
26,高階姓 − − 大和国高市郡の岡村より起る。
郷土記に「岡安芸守(天武の皇子 高市の末、高階の姓なり)」とあり。
27,小野姓 − − もと岡部氏にて、岡部孝貞−孝俊−孝直−孝興まで佐竹氏に仕え、
岡部と称せしが、故ありて岡に改め、徳川氏に仕う。家紋、十萬字、後
丸に打違鷹羽に改む。伝え云う「この氏 或は源氏と云い、或は、宇喜多家臣
岡貞綱の一族にて、もと十字紋なりしならん」と。
28,他
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