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小 原(ヲハラ・コハラ) |
解説 |
大和 甲斐 安房 常陸 信濃 磐城 陸中 但馬 因幡 美作 安芸 等にこの地名有りて、多くの小原氏を起こす。 熊本県山鹿市にこの地名あり。 |
分派氏族 |
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1,清和源氏高屋氏族 − − 尊卑分脈に「高屋為経−為貞−為房−実遠−小原親実−実家」と。
2,美作の小原氏 − − 美作国苫西郡(苫田郡)小原(コバラ)村より起こる。太平記巻三十六、
山名伊豆守 美作城を落とす條に「小原孫次郎入道が小原の城云々、
六箇所の城は一矢をも射ず降参す」と。
3,清和源氏武田氏流 − − 甲斐国東山梨郡小原村より起こりしか。
八代郡東分村に居址存す。武田信満の庶男 倉科信広の四世孫、古屋満忠の子
小原満長の後なり。その男 丹後守忠次、下総守忠国兄弟、武田家に仕う。
4,信濃の小原氏 − − 伊那郡小原村より起こる。居城 河南村小原にあり、その先、
明徳年中 小原大輔 初めて築城して住す。代々継承して小原下総守尹正に至り、
武田家に属し一方の大将たり。永禄九年八月、上野国和田城に戦死し、弟
正継相続、高遠城に属仕す。天正十年、大島城に出陣、織田氏を防戦す。
城将武田信綱逃走、正継 支うべからず。甲州に赴き御台所の介錯を為し、
天目山に殉死す。その子 正右衛門は、保科正之に仕え山形に移ると。
5,遠江の小原氏 − − 風土記伝に「浜名郡宇都山城また鵜津山城は、今川氏真の臣
小原肥前守鎮実、三河国の吉田より来って住す。永禄七年五月の事か」とあり。
又、甲陽軍鑑に「山西花沢の城に今川家弓箭の功者の家老 小原肥前立て篭もると雖、
身構えして左のみ氏真公へも取り合わず候、元亀元年正月、花沢城へ取誥給う。
城より降参、小原肥前、村上弥右衛門両人を助け、家康の方へ送らる」とあり。
6,清和源氏里見氏流 − − 安房国安房郡麻原郷(小原)より起こる。里見氏の族にして忠義を祖とす。
里見分限帳に小原越中守あり。或いは云う、この小原氏は、常陸国茨城郡(那賀郡)の
小原村より起こると云う。小原家譜に「忠義(里見刑部少輔)−義胤(陸奥守)−義連
−基義(応永十一年正月二十六日卒)−家兼(備後守、常陸国小原住)、弟
満俊(
民部少輔、小原住、常陸国 小原の祖)」と。
又、「家兼−家成(民部少輔、三郎、義実と共に房州に赴く)−義繁(民部少輔)
−義正(民部少輔、上総国小原に住す)−義貞−義時−政成」とあり。
7,藤原姓 − − 磐城国刈田郡小原村より起こる。小原丹後氏綱を祖とす。伊達世臣家譜に
「姓は藤原、その先を詳らかにせず。小原丹後氏綱を祖とす。氏綱、初めの名は
氏継、その家伝に云う、氏綱の実父を一色伊予守氏経と云うと。蓋し氏綱、出でて
小原家を継ぐか。初めて刈田郡小原村を賜いここに住す、よって氏となす。氏綱の子
掃部亮宗綱(天文の頃、初め宗継と称す)泰心夫人(直山公夫人)と瓜葛の親あり。
蓋し、その親を以って一族に列するか。これを詳らかにせず。又、小原以前
何氏たりしか詳ならず」と。
8,丹波の小原氏− − 天田郡小原村より起こる。小原三郎四郎、父を左近大夫と云い、
この人も又 左近大夫と称す。天正の頃、赤井氏に仕う。後、山本氏と云う。
9,肥後の小原氏 − − 当国玉名郡の小原城より起こる。国志に「小原は慶長十三年、坂上村より
分離して、城名によりて名付く。大友の家臣
小原大膳亮鑑元(或いは云う
三郎左衛門)入道宗意の城跡なり。天文二十三年に鑑元、当郡藠ヶ嶽城に移り、
後に謀叛の聞こえありて、大友の為に攻め込まれ、永禄元年戦死す」とあり。
又、牛島文書に「玉名郡南関城主 小原遠江守、関城主 小原鑑元入道宗惟」の名あり。
10,大神姓阿南氏流 − − 豊後国の名族にして、大弥太惟基の次男 阿南次郎惟季の次子
宗平、
阿南氏を称す。又、宗平の兄 惟房の男 友隆、小原次郎と称す。
又、集古文書 明応五年のものに「緒方庄小河名の内、小原神五郎跡百貫分、
坪付別紙在之 云々」とあり。
11,加賀の小原氏 − − 加賀藩給帳に「三百三十石 (丸の内に桔梗)小原忠太郎、
百石(丸の内に桔梗)小原泉之助、十七人扶持(丸の内に桔梗)小原余所右衛門」とあり。
12,他
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