額   田 (ヌカタ)

解説

古代 額田部なる大部族ありて、その部民の居住せしより

起こりし地名、全国に多し。この氏はその伴造、部民、または

この地名を負いしなり。

三重県桑名市、愛知県、大阪府東大阪市、兵庫県尼崎市に

この地名あり。 

分派氏族

 

1,大和の額田氏 当国平群郡に額田部村あり、この地名を名乗りしもあらん。

       天平十八年十月紀に「律師道慈法師 卒す。法師、俗姓は額田氏、添下

       郡の人なり」と載せ、

       又、元享釈書に「釈道慈、姓は額田氏、和州添下郡の人なり」とあり。

2,備前の額田氏 本朝世紀に「天慶四年、備前国、駅使を馳、健児 額田弘則

       二人、参着す。云々」と。

3,清和源氏新田氏族 −上野国発祥の名族にして、清和源氏系図に

「新田義重−経義(三郎、額田)−氏経−時経」とあり。

4,清和源氏佐竹氏族 常陸国那珂郡額田村より起こる。新編国志に

       「額田。那珂郡額田村より起こる。佐竹義重 二子 義直・額田弥次郎、

       子 義基、義基の二子に実義、盛直あり。実義の子 泰義・常陸介 建武

       二年歿す。その子 義教・下総守、子 義兼は、足利尊氏に従って東寺に

       戦死す」と。

5,那珂族小野崎氏族− 上記の後を受けて、小野崎五郎三郎通重、那珂郡額田城を

       領して、この氏を起こし、その後 江戸通房の男 通栄 その養子となり、      

       額田氏と称す。

       額田系図に「常州江戸。通勝(江戸但馬守)−通房(但馬守)、弟 通栄(

       額田、伊予守。通勝 佐竹常陸介泰義の子 成家をせめて、額田城を抜き、

       通栄を以って城主となす)−義通(下野守)−成通(伊予守)−篤通(久兵

       衛)−従通−昭通(久兵衛と号す。佐竹 江戸重道を滅して地を併す。江

       戸の臣 加納右衛門 額田に奔る。佐竹 使いを遣わして加納を乞う。

       昭通 與せず、佐竹怒り、兵を起こして額田城を攻む。昭通 迎え撃って

       これを走らす。佐竹 益々怒り、数々兵を出して、これを攻め、遂に志

       しを得ず)」と。

6,紀伊の額田氏 − − 第3項の後なり。

続風土記、在田郡名島村城跡條に「畠山植長の臣 額田甚三郎義正、天文二年五月、

三好との戦に敗れて この城に残りて討ち死す」とあり。

又、家伝に「新田大炊助義重の五男を額田次郎経義と云う。上野国新田郷の額田村に住し、

鎌倉将軍家に仕えて代々、鎌倉に住す。元弘 建武の乱に額田掃部助正忠、同左馬助為綱等、

新田義貞に従い、頗る戦功あり。明徳三年、南北朝御和睦の後、右京亮勝忠、義満将軍に仕う。

その末葉 縫殿頭義種は、畠山持国に属し、河内国若江城に住す。三郎左衛門義道は、

畠山政長に属し、甚三郎道範は、畠山卜山に仕う。甚三郎義正は、畠山植長に仕う。

天文二年五月、三好長元、湯川光春等、植長と広城合戦の時、義正 城中東の丸にて自殺す。

義正の男 三郎左衛門清安、叔父 池永孫三郎清徳の養子となり、畠山高政に仕えて

在田郡広の荘内を領す。その子 五郎右衛門清信は、湯川民部少輔直春に属し、天文十三年、

湯川家没落の時、領地に放たれ、広荘柳瀬村に蟄居す。元和五年、御入国の時、柳瀬村にて

地士となり、代々相続す。後、当所に移り、姓を池永と改む。今の恵次郎は、名士の各を賜う」と。

7,他 


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