野   中 

解説

和名抄 河内国丹比郡、遠江国磐田郡、豊前国下毛郡に野中郷

あり、又、陸前 丹波 紀伊 筑後などに此の地名あり。

その他 諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす。

国土基本地図に113ヵ所あり。 

分派氏族

 

1,春日氏族 河内国丹比郡野中郷より起こる。姓氏録、右京皇別に収め

       「野中。同(孝昭天皇皇子)彦国押人命の後なり」とあり。

2,赤松氏族 赤松義範の弟 貞国の後なりと云う。太平記巻十七に

       「播磨国の住人 野中八郎貞国」とあり。

3,清和源氏小笠原氏族 − − 阿波国の名族にして、古城記 板西郡分に

       「野中殿。小笠原源氏、家紋、松皮に竹の丸」とあり。

4,土佐の野中氏 − − 当国幡多郡宿毛の名族に野中伝右衛門良継(幼名 左八郎、兼山と号す)あり。

       その先は、播磨国と云う。第2項の族なり。

       系図は「野中道永−白仙−良平−良明−良継(兼山)」

       兼山は、同族 野中直継の養子となり、二代目藩主山内忠義に仕え、二十七年間

       家老として藩政確立にあたる。その施策は独創性に富み成果を収めるものが多く、

       近世を通じて兼山の右に出る指導者を見ない。南学の興隆により封建道徳の実践

       などの他、用水路建設による新田開発、治山、港湾整備など、多くの優れた施策を

       実行す。しかし厳直峻烈な性分と、天下に轟いた業績と名声への妬みゆえに、半紙・

       茶・漆の専売制度の創設や相次ぐ開発に対する一部民の反発を煽る政敵も多く、

       忠義公隠居後、三代藩主 忠豊公の弾劾を受け失脚し、その三ヶ月後に四十九歳で

       逝去した。一切の申し開きをせず潔く辞職したことで逆に罪を着せられ、遺子八名に

       対する政敵の追求は弛まず、男系が絶えるまで宿毛に幽閉された。赦免後、四女 婉は

       儒学・神道の学流を闇斎より受け継ぎ南学の正当な継承者となった谷秦山に師事し

       「おえんさまの糸脈」で知られる日本の先駆け的な女医となり、父の祠堂(野中

       神社)を建て堂主として余生を過ごす。

5,宇都宮氏族 豊前国下毛郡野仲郷より起こる。宇都宮宗房の三男 野仲重房の

       後にして、系図は

       野中重房−兼綱−兼紀−重澄−重世−隆種−房直−兼輔−道棟−道清−助道┐
        ┌――――――――――――――――――――――――――――――――┘
        └保道−道俊−直雄−道氏−政道−重通−弘道−成道−弘昌−重胤−鎮兼−重貞、

       豊前古城志に「建久七年、信房、弟 伊予守重房を下毛郡津民庄に封ず。

       重房 よりて長岩城を築き、常に大屋敷に住す」と。又、

       九州軍記に「弘治二年、長岩城主野中鎮種、一戦の後 大友氏に降る」と。

6,筑後の野中氏 − − 当国三井郡の野中村より起る。天文二十年の高良山神領 検地帳に

       野中治部丞あり。

7,源姓 堀江氏の後なり。ェ政系譜に「三右衛門政友−五郎兵衛政甫、

       家紋 丸に三日月、木瓜の内二重亀甲に花菱」と。

8,甲斐の野中氏− −山梨郡室伏村の名族にして、甲州 金座の役人なり。源氏にして、

       甲府一蓮寺過去帳に多くあり。

9,他


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