野   本(ノモト)

解説

土佐に野本庄、その他 武蔵 常陸 薩摩などに此の地名あり。

分派氏族

 

1,利仁流藤原姓斎藤氏族 武蔵国比企郡野本村より起こる。尊卑分脈に

       「疋田斎藤越前権介為頼−竹田四郎大夫頼基−基親(堀河院瀧口)

       −刑部丞基員(実は継孫、武蔵国、下河邊左衛門尉 政義の子。武蔵国

       に住して野本左衛門と号す)−左衛門尉時基(野本二郎)」と。

       新編風土記、比企郡條に「按ずるに野本の名は古き事にや。諸家系図に

       瀧口五郎基親の男 野本左衛門尉基員と云いし人、当国に住し、貞永

       元年九月十八日、九十二歳にて卒すと云えり。この人この地に住しかば、

       かく名乗しなるべし。その子を野本四郎左衛門尉時基と云う。時基

       二子あり、長男は押十郎重基、二男を押三郎景基と称す。又、時基に

       舎弟あり、野本次郎左衛門時員と称す。その子 太郎時秀、孫、孫太郎

       時行とあり。又、東鑑によれば 野本次郎時行の父は能登守時員とあり。

       これ系図とは異同あるが如し。もしくは この二人、系図とは自ら別人

       にて系図に漏らせしにや。それはともあれ、これなどの人皆ここに居り

       しなるべし。また村内無量寺 建長六年の鐘銘に野本村と鋳り、関東

       合戦記、永享十二年 村岡合戦の條に『長棟庵主は、七月八日、神奈川

       を立ち、野本唐子に逗留云々』とあり。長棟庵主は、上杉憲実なり、

       これによれば中古 しばしば戦争の地となりし事知らる。永禄の頃は

       この地を上田案独斎、遠山丹波守、宇野藤五郎などが領せしこと、小田

       原役帳に見えたり。成田家の分限帳にも野本右近と云う者、当所にて、

       十五貫文の地を領せし由見ゆ。この人武州の人と云うときは、かの野本

       の子孫なるべし」と。

2,桓武平氏千葉氏流 般若院千葉系図に

       「千葉常長−常兼−常重−胤元−胤茂(野本太郎)」と。

3,清和源氏 信濃発祥の名族にして、源頼政の男 仲綱の曾孫 光仲の七世孫

       勝政の後なりと云う。

4,越後の野本氏 − − 天文年間、長尾俊景 配下の将に野本大膳あり、村松城(村松町にあり)を守る。

5,清和源氏足利氏族 − − 足利氏経の孫 経久の後なりと云う。幕臣なり。

家紋は、瓜の内に二引龍、五七桐。

6,藤原姓 − − これも幕臣にして、ェ政系譜に「武兵衛千忠−十郎兵衛千充、家紋、丸に五三桐、鏡の内に唐花」と。

7,秦氏族 − − 秦 川勝の裔にて、金春(コンバル)四郎次郎の六代 大蔵虎明の子 虎重を祖とす。

ェ政系譜に「長大夫虎仙−一郎兵衛虎知−文左衛門尹虎−同虎純、家紋、丸に違い鷹羽、丸に向梅」とあり。

8,伊予の野本氏 河野系譜に「四郎通任、野本式部大輔貞政と対馬入道の手に属して、

予州 官軍を攻め、和介浜及び井門、高井の両城の戦に武勇の誉れ有り」とあり。

9,薩摩の野元氏 鹿児島郡に野本村あり、この地より起りしもあらん。

       畠山国明(直顕)の執事に野元藤次季安あり、姶良郡帖佐餅田村に拠る。

       地理纂考に「萩峰城、五代津島貞久の時 畠山直顕の執事 野元藤次季安の

       居城なり。直顕、加治木に屯する時、島津氏久これを攻め破り、直顕

       日向国志布志に走る」とあり。

10,他


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