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新 田(ニッタ・シンデン・ニイダ) |
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和名抄 武蔵国多摩郡、上野国新田郡、下野国芳賀郡、 陸前国黒川郡、但馬国城崎郡、播磨国揖保郡、備前国和気郡 に新田郷あり。又 薩摩国高城郡に新多郷を収む、新田八幡宮 の鎮座地なり。その他 諸国に新田の地名多く(592ヶ所)、 シンデンと呼ぶ地に至りては、挙げて数え難し。 |
分派氏族 |
里見、山名、徳川、世良田、額田、田中、竹林、牛澤、大田、 大井田、大島、烏山、豊岡、今井、大館、堀口、一井、江田、 長岡、羽川、桃井、細谷、金谷、岩松 |
1,清和源氏 − − 上野国新田郡より起こる。源義家の三子 義国、二子を生む。
長子 義重・新田庄司となりて新田太郎と称す。これこの氏の祖にして、
次子 義康は
足利氏の祖なり。
義貞1,333年挙兵、鎌倉を襲って北条氏を滅ぼす。
尊卑分脈に
源 義国┬新田 義重――┬義範[山名氏祖] |
*家紋 大中黒(一引龍、片引両)、
支流は鷹羽。
2,丹生の新田氏 − − 義貞の弟 四郎義重の後にして、上野国甘楽郡丹生山壘に拠る。
国志に「新田義重の孫 ここに居る」と載せたり。これより先、岩松文書弘安元年、
道受の譲状に丹生郷を収む。古くより新田氏の所領なれど、伝説には義重、
北條時行と戦い、足利直義、その功を賞して甘楽郡を与え、これより代々丹生山に
居ると。子孫 氏を後閑氏と改名す。
3,岩松流 − − 上記、時兼の後にして、新田と岩松を再度称し、遂には再三新田に
改む。系図は
「岩松時兼−経兼−政経−経家、弟 直国−満国−満純(応永二十四年、舞木宮内少輔と 戦い殺される)−家純−兵庫頭明純(新田太郎)−顕純、弟 尚純(新田次郎、文亀年中、 岩松に閉居)−兵庫頭昌純(新田、足利、館林、那波、大胡を領す)、弟 氏純−守純(金山城 落城の後、浪人して家康公に謁し二千石を賜い世良田に住す)−義純(岩松氏に改む) −富純(岩松小次郎)−慶純−義寄−徳純−道純−俊純(新田に復し、男爵を賜う)−忠純」なりと。 |
4,桐生流 − − 系図は
「新田基氏−覚義−朝兼−義真、弟 宗兼−宗賢(興国年中、南山に到り上総介に任ず) −直宗−宗衞−宗安−宗数−美濃守宗俊(領 桐生)−昌宗−重宗−繁政−繁安」と。 |
5,下野の新田氏− − 那須郡伊王野村簑澤の二岐城は、新田美作守の居城と伝えらる。
天文二年にその遺骸を発掘せしに、眼に純朱を埋め、歯牙に金箔
付着せりと。
6,山士流 − − 新田義貞の三男 義宗(武蔵守)の裔と伝えらる。その系図に
「義宗=貞方、弟 義則(相模守、応永二年、白川に敗れ相模箱根に隠る)−義邦−貞宗 −貞義−貞治−助貞−貞興−義都−義春−義仲、弟 義久−義房(関ヶ原の陣、伊達 政宗に属し、高 九千石)−光明−義一−信之−義康−宗康−康治−忠貞−義広−嗣当 −義修−光興(慶応、山士家と称す)」となり。 |
7,武蔵の新田氏 − − 児玉郡五十子城(東五十子村)は、新田三河守家継の居蹟と云い伝われど、
築城の年代は伝えず。
又、伝え云う「榛沢郡横瀬村の華蔵寺は、上野国新田郡世良田村
総持寺の末にて、
心王山自心院と号す。当寺は建久五年の建立にて、開基は新田義兼なり。
その位牌、本尊の傍に安し、華蔵寺殿本源大禅定門と刻す。この人は、
新田義重の長子(正嫡)にして、新田寺尾城にありて、僧 弘道を開山となし、
当寺を建立すと云う。云々。而して、多摩郡一ノ宮村一ノ宮明神社の神主家に
この氏ありて、新田義重の後胤なりと云えり。されど旧記、家系は、焼失す。
圭済録に『高十五石、多摩郡一宮郷一宮大明神、新田主水、太田左門』とあり」と。
8,桓武平氏岩城氏族 − − 磐城国石城郡新田(仁井田)村より起こる。国魂系図に
「好島太郎清隆−師隆(新田太郎)−隆義」と載せ。
又、「富田三郎行隆−師行(新田八郎)」などあり。
9,田村氏族− −磐城国田村郡新田(丹伊田)村より起こる。田村顕氏の三男
民部顕輝、
この地の城主たり。又、新田館は、田村家支族 新田美作守の居所などと伝う。
10,中村新田氏 − − 岩代国伊達郡新田村より起こりしか。伊達世臣家譜に
「中村。本は、新田と称す。姓は源、その先を知らず。新田三河守某を以って
祖と為す。三河守の子 遠江守景綱は、直山、保山、性山の三公に歴仕して
執政職たり」と。系譜には
「新田越後守貞方−武蔵守貞長−越後守貞久−三河守貞綱−遠江守景綱(伊達稙宗、 晴宗、輝宗に歴して、天文二十二年正月、晴宗の時に采地を賜う)−義綱(政宗に仕う) −義親−義延−義影−成義−義全」と。 |
11,陸前の新田氏 − − 陸前の新田郡より起こる。封内記に「本州に古え、新田郡あり。
新田は、上野新田とその呼称を同じうす。大崎義隆の祖 家兼、建武三年、
陸奥出羽の探題職に補せられて、当国新田を以って治所となす。家兼は、
足利の族より出で、建武以来、義貞、尊氏と両雄争いて止まず。家兼、
仇家の称を嫌いて、井の字を郡名の中間に加えて、その呼称を異にす。
それより新井田と呼び、即ち郡名を所々に分配して上中下の三区を立て、
且つ新田村を以って、玉造に属せしむ。故に加美に上新田、中新田、
下新田あり」と伝う。
又、「新田村。古壘ありて平城と称す。今 悉く民宅となり、その遺跡
なし。大崎家臣、新井田氏、世々ここに居る。その後、義隆の侍童
新井田刑部なる者、寵を怙み乱をなす。この刑部と云うは、大崎家の
重臣 里見義成の二男 刑部義景の事にて、この地名を負いて、新田と
称せしなり」と。
12,奥州藤原氏族 − − 平泉御館の一族にして、秀郷流系図に
「火瓜五郎季衡−経衡(号 新田冠者)」と載せ、東鑑巻九、文治五年
六月十三日條に「藤原泰衡の使者、新田冠者高平(高衡)、源義経の首を
腰越浦に持参す」と。
13,出羽藤原姓 − − 羽後国山本郡の二井田村より起こる。鎌倉初期、大河氏の族に新田氏あり。
東鑑 建久元年正月條に「二藤次忠季は、大河次郎兼任の弟なり。忠季の兄
新田三郎入道、同じく兼任に背きて参上す云々」とあり。
14,清和源氏南部氏族 − − 陸奥国三戸郡八戸の新井田村より起る。八戸南部の分家にて、ニイダ氏なり。
史徴墨寶考証に「正平中、住吉行在より綸旨を賜りたる南部左馬助は、甲斐南部の
一族にて、陸奥七戸を領し、その子 親光に至り、明徳四年に甲斐を去り、糠部に来り、
八戸の新井田に居る。よりて新田を氏とす。八戸系図に見ゆ」とあり。
15,越後の新田氏 − − 当国は新田氏第二の根拠地なり。
魚沼郡席山城(石打村関山)は、建武中、新田義顕の居城と云う。
又、櫛山城は、一説に城山新田城(薮神村)とも云う。
又、大崎村の大崎城は、御館の城とも称し、貞和年中、高師泰、家臣を置き、後、
新田義治 居城すと伝う。
又、沼垂郡の上一分城は、新田常説の築城と伝う。
16,越中の新田氏 − − 南北朝の頃、新田貞員、高規城に拠りて勤王すと云う。
17,加賀の新田氏 − − 三州志、能美郡安宅條に「応安元年、新田義宗、義治等、僣行して、
安宅関に抵りしことは、後太平記に見ゆ」とあり。
18,清和源氏平賀氏族 − − 諸家系図纂に
「平賀盛義−義隆(新田大炊助の子となり、新田判官代と号す)−義資(新田四郎兵衛)」とあり。
19,相模の新田氏 − − 新田義治の子 相模守義則(義陸)、箱根の山奥の底倉と云う所にて、
討ち死にすと云う。
20,藤原南家天野氏族 − − 伊豆の新田氏にして、田方郡仁田より起こる。
源平盛衰記に「藤内遠景、弟の六郎、新田四郎忠経」とあり。
又、「伊豆国住人 新田次郎忠俊」とあり。
又、東鑑に新田四郎忠常の名あり、又、四郎の弟に仁田五郎、六郎、仁田忠時等あり。
又、翁草、鎌倉時代 武士の所領として「五千町、豆州の内、新田四郎忠綱」とあり。
又、この流の紋は、二疋馬なり。又、普通は 「ニタ、ニタン」と読む。
21,駿河の新田氏 − − 大石寺 建武元年文書に新田孫五郎の名あり。
22,三河遠江の新田氏 − − 二葉松に「設楽郡名倉村清水城。新田孫六、或は右衛門佐の居城なり。
この末葉、遠州堀江の城主」とあり。
又、遠江の大沢氏配下の将に新田友作入道喜斎あり。
23,尾張の新田氏 − − 当国愛知郡の大喜城は、新田四郎の居城と云う。
24,美濃の新田氏 − − 康正段銭引付に「八貫八百五十五文、新田左衛門佐殿、濃州の内、所々段銭」とあり。
25,近江の新田氏 − − 輿地志略に「蒲生郡上羽田村。上野浪人 新田三郎兵衛、当庄を屋形より賜り、
新田新五郎と云う。その先は、義重より二十二代 刑部少輔義幸の嫡男」とあり。
又、蒲生家臣に新田上総允あり。
26,丹波の新田氏 − − 当国多紀郡の名族にして、新田尾張守義治(太郎九郎)の後と云う。
27,美作の新田氏 − − 笠庭寺記に「東北條郡高倉荘(金十両三朱)新田宗久」とあり。
下って、東作志に「英田郡江見庄 山城村の庄屋 新田助右衛門」の名あり。
28,播磨の新田氏 − − 当国揖保郡に新田郷あり、この地名を名乗りしもあらん。
元弘三年七月、新田兵部大輔に当国福居庄の維貞を賜う綸旨あり(集古文書)。
29,清和源氏足利氏族 − − 阿波国岸系図に
「義植公の三男 新田義似公、阿州に下向、府中に屋形を構え 国司と号す」とあり。
又、阿波志に「源義近・居府中壘、新田氏族、相伝領 一万六千貫」とあり。
30,伊予の新田氏 − − 当国宇摩郡川瀧村下山に新田左少将義宗の墓あり。
又、新田神社も有りと。これを縁にして 新田を名乗る者もあらん。
31,土佐の新田氏 − − 佐伯小三郎経貞の軍忠状に「兇徒 花園宮、新田綿打入道殿」とあり。
32,豊後の新田氏 − − 図田帳に「国領 三重郷、百八十町、新田陸奥守殿」と。
又、後世、脇屋義助の子 義治の裔と称する新田氏あり。系図に
「義助−義治(義陸の弟)−左衛門尉兼治(又二郎、鎮西宮に供奉して 筑前国に下向)
−左近太郎義遠(国松丸)−主税助尹松(勅次郎)−勅次郎忠治(太郎)−新田太郎次郎義照(
大友家に属し、大内合戦の時討死)−源右衛門、弟 太郎次郎義政−太郎次郎義信(早世)。
又、義政の弟 新田兵部大輔鎮景(遠江守、大友宗麟に仕う、その弟 右馬助あり)
−新兵衛、弟 僧 善了、弟 鎮実(肥後守、掃部助、太郎次郎、大友宗麟に仕う)
−統喜(新田源太郎、大友義統に仕う)−茂政(佐田清兵衛、立花宗茂に仕う)」とあり。
33,豊前の新田氏 − − 国志に「豊前国京都郡の馬箇岳城は、応永二十八年頃、征西将軍の家臣
新田上野介義基 在城して三代居りしが、大内勢に攻め取らる。その後、新田義氏、
同 義高等、一時 京都郡より、宇佐、下毛 両郡に威を張れり」と。
伝え云う「この流は、新田基氏の二男 荒居(新井)禅師覚義(義貞の叔父)の後
と云うものにして、新田上野介義基(太郎)は、覚義の長男なりと。脇谷義治と共に、
三騎に討ちなされ、後、延元三年正月、吉野の皇居を守衛し、興国元年、懐良親王に
従いて 大宰府に下向。菊池肥後守と議して、豊前の馬ヶ岳城に居ると伝えらる。
その男 義氏も新田上野介と称して、馬ヶ岳に居城し、応永九年八月に卒す。
その男 義紀は、新田弾正大弼と云い、兄 義氏と同じく、馬ヶ岳城に居りしが、
応永五年十一月二十八日、大内義弘と戦いて死す。次に義氏の男 義高は、
新田左馬頭と称して、馬ヶ岳に居城し、豊前国京都郡吉田郷の久保庄、宇佐郡の辛島等、
八千貫の地を領す。里見式部少輔義有と共に山口へ行き、永享三年正月十一日、
下毛郡大家匂金の庄にて自殺す。後年、中津城下に於いて神と崇め、今尚存在すとぞ。
その長男 義通は、新田左京大夫、永享三年正月十一日、馬ヶ岳にて自盡す。
次男 竹王丸も兄と共に死し、三男 吉丸は、同日、舟田入道玄如に護られて、
下毛郡中津川に至り、重松某を頼る」と。
34,佐田流 − − 筑前 筑後にあり。筑後国志に
「佐田氏、本国は 上野、新田義光 西国に下り、筑前国下座郡佛谷佐田村に居住し、
氏を佐田と改む。文安年中、懐良親王に供奉せし 里見十郎を頼みて、これに属す。
故に筑後生葉郡を賜う。新田蔵人義兼 六代の孫、新田左兵衛督義顕の子 新田四郎義一、
その子は即ち、義光なり。源家正統系譜に云う、義貞、義顕、義一、九代の孫を
佐田清兵衛と云う。又、義貞の弟 脇屋義助、その子 義治、その子 義久、西国に下り、
筑前佐田に住し、佐田氏に改む」とあり。
*故に、両国に下りし新田氏の支流の子孫の中には そのまま新田を名乗る者もあらん。
35,隈部流 − − 新田義貞の裔、右衛門督義照、北国を落ち筑後国生葉郡に来住し、
後年、大友家に従属す。その子 岩千代丸は、大友義鎮に仕え、その
末っ子 善良法師、当国善導寺に在住せしが、還俗して氏を隈部と改め、
筑後入道善良と号し、武勇絶倫なり。竹野郡石垣村の新田の城、同郡
南鳥飼村の城は、共にこの新田氏の築く所なりと。尚、 石垣村の新田
城は、新田忠常の居城と伝えらるれど、恐らく新田善良の祖先の居所
ならんと(国史)。又、開基帳に「竹野郡高倉村八幡、床島村八幡は、
新田義信の建立なり」と。
又、鳥飼村城も新田義信の築城と伝えられる。
36,光田流 − − 義貞の孫 貞方に文殊丸と云う遺児あり、長じて 光田小太郎貞家と称すとぞ。
37,肥後の新田氏 − − 太平記 巻三十三、菊池合戦條に
「新田一族には、岩松相模守、瀬良田大膳大夫、田中弾正大弼、桃井左京亮、
江田丹波守、山名因幡守、堀口三郎、里見十郎」とあり。
38,薩摩の新田氏 − − 当国薩摩郡東水引村に新田神社(新田八幡宮)あり、これを縁にして
新田を名乗る者もあらん。
39,室町幕臣 − − 新田氏の一族は、多く南北交戦の際、悲壮の死を遂げ、或は
民間に隠れて名利と離れしも、中には、室町幕府に仕えしもありて、
永享以来御番帳に「外様衆、新田大島左衛門佐、新田岩松兵庫頭」等を
載せ、又、文安年中御番帳に「五番、新田大井又太郎」、長享常徳院
江州動座着到に「新田大島兵庫頭」とあり。
40,他
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