奈   良

解説

大和 山城 尾張 武蔵 上総 下総などに此の地名あり。

群馬県沼田市、大阪府茨木市、福岡県田川市にこの地名あり。

分派氏族

 

1,藤原南家 豊成三代秀清・大和国吉野郡奈良にありて、奈良を称号とす。

       その二十三代孫 秀定、その子 秀度なりと云う。

2,成田氏族 武蔵の大族にして、成田系図に「成田大夫助高−高長(奈良祖、

       奈良三郎)」と。

       又、中興系図に「奈良。藤原姓、成田太郎大夫助高の男 三郎行基これ

       を称す」と。

       新編風土記 幡羅郡條に「上奈良村。往昔 奈良氏ここに住せしならん」

       と。また、妙音寺條に「開山頼尊は、奈良三郎なりと云う。頼尊の墓碑

       の左の方に奈良三郎藤原頼尊、右の方に建久六年現住鏡岸、裏に助成主

       篠沢氏と彫れり。相伝、この地は奈良三郎の居住にして、当寺の開山

       なりと云う。按ずるに成田系譜に成田大夫助高の三男 奈良三郎高長

       あり。この人の墳墓なり。云々」と。

3,陸中の奈良氏− 前項氏は、鎌倉時代、成田氏と共に奥羽に下りて子孫栄える。

       津軽郡中 名字に「鹿角三百町、国侍は奈良、成田、安倍、秋元」と。

       その後裔、鹿角郡瀬田石に拠る。

4,多々良姓 − − 細川管領家臣にこの氏あり、細川家の四天王なり。細川両家記に

「奈良弥六、京にては、奈良修理亮元吉」とあり。

見聞諸家紋に「多々良氏、奈良、剣花菱」とあり。

5,讃岐の奈良氏 − − 上記の奈良氏にして、西讃府志に「奈良氏は その先の出る所詳ならず。蓋し、

東国の人にて、応仁の頃、太郎左衛門元安と云う人あり、細川氏に属して、城を宇多津に

築いて居れり。元安の子を備前守元信と云う。京師にありて、管領家のことを執り行う。

その子を太郎兵衛元政と云う。治乱記には、勝政に作る。元信これを宇多津に居らしめしが、

元信、頗る所領を失い、津郷二村川津等の数村を保てり。時に長曽我部元親、西長尾の城を築く。

元政これを恐れて栗熊村に砦を築きしが、天正十年、元親、諸城を降し来り攻む。時に十河存保も

微勢になり、応援すること能わず。元政、固より兵少なくして防ぎ戦うことを得ず。城を捨て退散す」とあり。

6,但馬の奈良氏− −太田文に「二方郡温泉庄 七十四町六反半五歩、地頭 奈良九郎宗光、同舎弟 二郎左衛門尉正員」とあり

7,鮫島氏族 薩摩の奈良氏にして、地理纂考、薩摩国揖宿郡揖宿郷松尾城條に

       「島津久豊に至り、これを奈良美作に与う。鮫島四郎宗家の苗裔なり。美作、驕縦にて、

当村大いに乱る。応永十六年、久豊これを討つ。美作 当城に拠りて固く守る。久豊 衆を励まして、

遂にこれを抜く。味方 酒匂主計など戦死す。かくて美作 罪ありといえども、その勇略を愛み、

       久豊の侍臣たらしむ。同 二十七年、頴娃某、頴娃城に拠りて叛す。久豊又これを討つ。

頴娃氏、戦い敗れて逃走す」と。

8,金工奈良家 その祖 小左衛門利輝は、ェ永元年、幕府に召さる。ェ政系譜に

       「宗貞(小左衛門、利輝)−宗有−利永−宗閑」と。

9,他


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