直   江 (ナオエ)

解説

山城、美濃、加賀、越後、出雲などにこの地名あり。

山形県米沢市にこの地名あり。 

分派氏族

 

1,大神姓 豊後国の名族にして、大神系図に

      「緒方三郎惟栄−惟友(直江三郎)−惟親−惟高−惟春(直江七郎)」と。

2,神姓 越後国中頚城郡直江(直江津、津とは、港の意味)より起こる。

       上杉謙信の臣、直江入道酒椿の子 大和守実綱に至り名あり。

       その系図に「景綱(初め実綱、代々直江荘與板城主にして、武略あり、

       長尾為景、輝虎の二世に仕う。飯沼頼清を破りその村を収む。天文五年

       三月五日卒、歳七十余)−信綱(長尾景定の男、天正十年、春日山館に

       於いて毛利秀弘に殺害せらる)−兼続(樋口伊予守兼豊の男、輝虎に

       近侍す)」と。

       兼続、天正十年、改めて山城守と称す。天正十五年、従五位下に叙す。

       関ヶ原の役後、上杉減封の際、六万石を賜う。兼続の知謀勇武なりしは、

       秀吉がかつて小早川隆景、堀直政と三人を以って漢の三傑に比ぶべしと、

       云われしによりてうかがえる。慶長の終わり、名を重光とむ、元和元年、

       実子 景明十八才にて早世。元和五年十二月十九日、江戸にて卒す。歳

       六十也。その養子 勝重、実は本多佐渡守、正信(老中)の二男

       安房守正重なり。

       慶長九年八月家を継ぎ、慶長十七年前田侯に仕う。後 本多氏に復し、

       五万石を食む。この後は本多氏を参照。

3,美濃の直江氏 新撰志、多芸郡直江村條に「鍛冶兼俊。志津三郎兼氏の二男

       にて、暦応(或は貞治)の頃、ここに住し、直江六郎または直江志津と

       号す。兼友は、観応の頃ここに住みて、直江志津と号す。或は兼氏の弟

       と云う。兼信は、善定兼吉の子にて、永徳の頃ここに住す。また兼氏の

       二男とも云う」とあり。

4,他


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