中   島(ナカジマ)

解説

諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす(322ヶ所)。

分派氏族

 

1,尾張の中島氏 当国海部郡に中島郷あり、東鑑巻三十三に「延応元年九月

       二十一日、尾張国住人 中島左衛門尉宣長」あり。承久の乱 官軍に属す。

       その後、中島蔵人ありて、尾張志に「中島城(中島村)は、この人が

       居住せし」と。

2,美濃の中島氏 今尾城(今尾町)は、文明中、斎藤氏の家臣 中島重長 築き、

       その子 重通、その子 重光、その子 重行など住し、重行に至り攻めら

       れて逃亡し、その後、高木彦右衛門、駒野城より移りて信長に仕うとぞ。

       又、新撰志、今尾村城址條に「文明年中より、中島三郎大夫重長(斎藤

       家の従士)、中島藤三郎重直、中島出羽守重元、中島内蔵助重行、四代

       今尾の城主なり」とあり。

       又、徳川時代、武儀郡桐洞村の義民に中島助兵衛あり。

3,諏訪神族 信濃の名族にして、諏訪系図に

       「大祝貞方(安芸権守)−光家(中島五郎)」と載せ、又、

       「大祝盛重(安芸権守)−顕重(中島余次)」とあり。

4,滋野姓 −信濃の名族にして、諏訪志料に「中島氏、元 矢島を称す。即ち、

       滋野の一族、八島行忠(幸忠)より出づ。行忠は、木曽義仲に属して功

       あり。その男 八島小太郎行朝は、義仲戦死後、三澤郷新倉の地を開く。

       その地、天竜川の中島にあるを以って氏号を中島に改む。建武中、中島

       某、旧家の故を以って小笠原信濃守源貞宗に召し出され、以後、小笠原

       家の重臣となる。天正十一年、中島刑部太夫に至り、故ありて浪人す。

       慶長中、高島藩に召し出され、中島孫兵衛と云う」と。

       諏訪の中島氏は、丸に花澤潟を家紋とす。

5,清和源氏小笠原氏族 これも本国信濃にて、伴野氏の族と云う。ェ政系譜に

       「筑後守盛信−大蔵盛直−盛昌−盛直−盛忠−百助盛昌、家紋 九曜巴、団扇、三頭左巴」と。

6,甲斐の中島氏 当国巨摩郡に中島あり。この地名を名乗りしもあらん。

       又、上野原七騎の一に中島氏あり。

7,藤原南家工藤氏族 日向記に「維永次男 維重、これを駿河の工藤と号す、

       中島云々など、維重の支流なり」とあり。

8,武蔵の中島氏 荏原郡若林村の名族 中島七左衛門某は、常林寺を開基す。

       又、風土記稿入間郡條に「鍛冶町。中島與兵衛、性質篤実にして、母に

       孝なり。また、名主役を勤めて、謹厚なるを以って、文化元年四月、

       領主より褒賞して永く苗字を名乗る事を許せり。渠は、古き世の事を

       好みて、当郷の古蹤を探り、一書を著わして 三芳野名所図絵と名づけ、

       今も家に蔵せり」と。

       又、埼玉郡の中島氏(小曾川村)は、古くは 小曾川氏にて、祖先を

       小五郎と呼ぶ。古文書などもありしが、中古 失えりと云う。蓋し、

       小曾川小五郎は 岩槻太田氏に仕えしものなりと云う。

       又、葛飾郡の中島氏は、青砥藤綱に仕えしと伝うれど、御殿の古図を

       所持するのみにて、家系を伝えず。

9,上野の中島氏 緑野、多胡、佐位、勢多、群馬などの諸郡にこの地名存す。

       古伝記に「宝亀年中、当国佐貫に中島三郎太郎と云う者あり。その娘

       富姫、藤原小黒麻呂に嫁す」と云う。

       又、倉賀野十六騎の一に中島豊後守あり。

10,桓武平氏三浦氏族 − − 会津の中島氏にて、新編風土記 耶麻郡大塩村條に「館跡。天正の頃、

葦名の臣 中島美濃某、居せしと云う。その後裔 穴沢源吉あり。この村の検断にて、

系図によるに『美濃は その先、和田義盛に出づ。建保年中、新左衛門尉常盛の子 幸若、

家難を避け、会津に来り、成長して中島義仲と称し、大塩村の地頭となる。美濃は

その八世の孫なり』とぞ。子なきにより、檜原の穴沢加賀信徳の五男 左馬信清と云う者を

養子とす。左馬、後に源左衛門貞利と称し、伊達氏ここを襲いし時、穴沢等と力を合わせ防守す。

葦名氏 滅して後、源左衛門、上杉に仕え、氏を穴沢と称す」とあり。

11,伊達の中島氏 − − 岩代国伊達郡保原村に拠る。伊達世臣譜略に「中島氏は、もと縣氏の臣なり。

天文中、伊達宗忠に至り、初めて当家に仕う。その子 宗求なり」と。

又、伊達世次考に「天文二十年四月、晴宗公、采地の判書を中島伊勢信康に賜う」とあり。

又、伊達政宗家臣に中島監物、中島伊勢、中島大蔵信真などあり。

12,藤原姓 − − もと奥州の斯波家家臣、後、南部氏に仕う。

参考諸家系図に「中島氏。五系、姓藤原、紋、菊輪内に三扇。中島内膳(或いは源内)、

先祖某より斯波氏に仕えて、同郡中島村を領して氏となす。天正十六年八月、斯波氏滅亡の時、

帰降して信直公、同郡十日市村一円に三百石を賜う。一本に金山奉行を勤め、罪あり、

禄収らると。その子 源内、信直公の時、家督 百五十石也、御馬廻りを勤む。利直公、

慶長六年春、岩崎御陣の時、第二番に備う、花巻十二騎の内也。弟 中島内膳。又、源内の子

安親(中島庄右衛門)−庄三郎安政(安家)」とあり。

13,加賀の中島氏 − − 康正造内裏段銭引付に「一貫五百文。中島次郎殿、加州 益四田保、段銭」とあり。

この氏は室町時代の名族にして、太平記巻四十、中殿御會事に

「中島弥次郎家信等、思い思いの直垂云々」とあり。

又、永享以来御番帳に「五番 中島加賀入道」とあり。

又、長享元年 常徳院江州動座着到に「二番衆 中島弥四郎、五番衆 中島小四郎家賢」とあり。

又、永禄六年 諸役人附に「足軽衆 中島但馬守」とあり。

又、加賀藩給帳に「二百五十石(紋、岩形内に橘)中島小兵衛、百石 (四ッ岩形内に橘)中島慶三郎、

三十五俵(揚羽蝶)中島善六郎」とあり。

14,日下部姓朝倉氏族 越前国大野郡中島より起こり、朝倉系図に

       「朝倉氏景−景康(中島周防守)」とあり。

15,佐々木氏族 − − 幕臣にして、ェ政系譜に「七郎右衛門常行−平吉常高−常房、家紋、丸に軍配団扇、丸に花菱」と。

16,伊勢の中島氏 − − 当国桑名郡の名族に中島右衛門あり、東方村東方城に拠る。

名勝志に「天保五年四月、地を掘る、一瓶を出せり。その外面に中島右衛門の五字を刻す。

内に古銭十貫文ありたりと。一城跡は、本村の西南、字尾畑の山上にあり。伊勢丸なる者

ここに居る。尚、一城跡ありて、近藤右近進 居城し、永禄中、織田氏の為に滅ぼさる 」とあり。

勢州四家記に「浜田家 侍大将に中島氏」を挙げ、又、関長門守の家臣に中島太左衛門(三十石)あり。

17,丹波の中島氏 − − 当国氷上郡の玉巻城(玉巻村)の城主に中島氏ありて、丹波志に「中島式部少輔、子孫

佐治村中の町。豊臣太閤の臣、大阪落城の後、浪人にて ここに来住す」とあり。

又、「中島氏。玉巻村、古家なり、古城主久下、この谷に住す」と。

又、天田郡に存し「中島氏。子孫 和久市村。信州より来る、両人の内也」と。

18,秀郷流藤原姓波多野氏族 荒木系図に

       「波多野次郎義通−義職(伊勢守光定の男)−義泰(中島太郎)」とあり。

       ェ政系譜は、波多野三郎義通の男 伊勢守義職の後とし、「與五郎(政成)

       −與五郎(重次)−同 重好−同 重春−同 重貞、家紋 亀甲剣花菱、九曜巴」とあり。

19,清和源氏山名氏族 − − 因幡国巨濃郡の中島より起る。因幡志に「中島城は、天正の頃、

中島四郎左衛門と云う者居りて、宇治、大野、陸上、三ヶ所を領す。これは山名師氏の二男

播磨守満幸の末葉、満幸 謀反の後、その子 幼蔵、その後 四代四郎左衛門、地名を氏とす」とあり。

又、「中島伊豆守。山名満幸の末葉、中島四郎左衛門正時、天正中、巨濃郡宇治、大野、

竹美の辺を領して、中島村に住す。その弟 中島隠岐守なり」と。

20,赤松氏族 − − 播磨国作用郡の中島より起る。石野系図に

「作用兵庫助範重−作用左衛門三郎範家−定明(中島市正。建武三年九月十三日卒)−顕盛(中島孫次郎、

元弘合戦の時 京都にて討ち死)−顕範(孫八郎、延元元年夏、摂州湊川に於いて戦功あり)」とあり。

21,藤原姓 − − 美作国苫田郡の名族にして、伝え云う

「一宮神主家に中島氏あり、中山神社勧請の際、土豪 中島頼名 なる者、有木氏と奉祀に当る」と。

又、建武三年の感状に「美作苫東郡高野郷 惣領・中島隆家」とあり。

又、作陽古簡集に「貞和元年、中島丹後守の子 次郎右衛門幸家、高野郷地頭職」とあり。

又、伝え云う「隆家、高野郷の地頭となりて、高野本郷の地に来り、その子 次郎左衛門幸家以下、

数世相継いで襲職す。吉左衛門尉隆重に至り、兄弟三人、各々 羽柴秀吉に属し、天正六年三月、

地頭職を襲ぐの命を受く。隆重の子 四郎左衛門幸重は、宇喜多氏に叛き、為にその妻、従僕等

二十余人と共に戦死す」と。

又。名聞集に「丹後守隆家は、美作高野郷の地頭職に補せられ二階堂美作守貞衡の娘を妻とす。

元徳二年、四月十二日、隆家 退隠し、長子 高行 継ぐ。明年、外祖父 二階堂貞衡の子 行直、

卒して子なし。よって高行、その弟 高貞に家名を譲り、行直の後を承けて 二階堂高行と称す。

高行の曾孫 政行の子 近江守氏行に至り、再び中島に復す。氏行の玄孫 菅助秀政は、

弘治、永禄 天正の間、浦上宗景に仕えて戦功多し。天正五年に至り、宇喜多直家 謀反して、

宗景を天神山に襲うや、秀政、城に入り、遂に克たずして死す。その子 中島左衛門雄政は、

宇喜多秀家に仕え、文禄元年、朝鮮の役に従い、韓土 松村城に功を顕わし、劉安父子を虜にす。

慶長三年、凱陣に当り、捕虜を携えて帰る。同五年九月、関が原の役より、宇喜多氏 国除となり、

帰農す」と。後世は 神主家と大庄屋家の二つに分れると云う。

又、寛保三年五月文書に「一宮神主 中島杢頭」と。

又、「苫田郡西一宮村 中島氏(神主 分家、正徳中の中島甚太兵衛の祖)、同郡香々美村 中村氏(

一宮中島孫右衛門雄豊の子 多右衛門政温の裔)等、皆この一族」と云う。

又、「吉野郡大野保川上村に中島善兵衛の屋敷跡あり、同郡川合庄 矢之原村の庄屋に中島氏あり、

その祖は 戦国の頃、横尾村に戦死す」と云う。

又、英田郡川合庄矢之原、香合村の里正 紋之助は、中島氏にして、東作志に

「その祖は 横尾村より出づ、祖廟、今にありて、中島大明神と僭号す。旧家にして、一村一人の農たり。

凡そ当国東六郡の内、一村一人の者 三人あり。英田郡三海田村の善兵衛、吉野郡尾崎村の六郎兵衛と

この紋之助と のみなり。然りと雖も、喜兵衛、六郎兵衛は、共に家来の者ありて、在住す。紋之助は、

一村一家の一人にして、数代相続するも奇なりとすべし」とあり。

又、真庭郡下和村に幸家の裔 ありと云う。

22,藤原姓 − − もと山崎氏。與惣右衛門舍房の子 四郎左衛門資永に至りて、中島に改む。家紋、丸に横二引、日足。

23,藤原南家為憲流 備中国賀陽郡中島村より出づと云う。二階堂左衛門尉行持の後裔なりと称す。

家紋 亀甲の内二引、丸に二引、五三桐。

       中興系図に「中島、藤原姓、本国備中国浅口郡中島、二階堂大蔵大輔政行の男 近江守の息

加賀守運行これを称す」とあり。

24,土佐の中島氏 − − 長曾我部元親の家老に中島大和あり。

又、中島與兵衛あり、讃岐国の與北城を守る。

又、河内八幡宮の天正十七年棟札に「奉行 中島五郎」とあり。

又、幕末明治に中島信行あり、自由党副総理、功を以って男爵を賜う。その妻 俊子は、

女性運動の先駆者。京都生まれ。号は湘烟。自由民権運動に参加し、民権論・男女同権を説く。

25,豊後 豊前の中島氏 − − 大分市、日田市、大分郡湯布院町、玖珠郡玖珠町、下毛郡本耶馬渓町、及び

下毛郡耶馬渓町に中島の地名あり。この地名を名乗りしもあらん。

又、宇佐郡の名族にして、天文の頃、中島大蔵丞あり、その子 壱岐守(高家城主)、その弟を

伊予守統直と云う。

又、天正の頃、中島純次あり。

26,筑前・筑後の中島氏 − − 福岡県山門郡大和町、同郡瀬高町、小郡市、前原市、朝倉郡朝倉町、浮羽郡吉井町、

三井郡北野町、三井郡大刀洗町、三瀦郡大木町、八女郡立花町に、中島の地名あり。

この地名を名乗りしもあらん。

27,大江姓 今富氏の族なり。一説に大江氏春の裔と称す。子孫 大村藩にあり。

       又、有田因幡守家臣に中島氏、畑氏配下に中島治部左衛門など諸書にあり。

28,宇佐姓 長門国の名族にして、住吉荒魂社の大宮司家なり。その系図に「天諸神命、一名 天三降命の後」とあり。

29,薩摩の中島氏 − − 第3項の族にして、伝え云う

「信濃の諏訪社神主 中島家の二男 中島宮内少輔、信州より諏訪神を護り奉りて、薩摩国に下り、

伊集院の内 町田原に休息しけるに、忠国公 鷹野に出で、家名を御尋ねあり 云々」と。

又、大隈国姶羅郡の八幡宮社司に中島伊予あり。

30,清和源氏吉見氏族 − − 石見の名族にして、石見志によるに

「吉見頼行(三河守、弘安四年、沿海防御の功により、石見五百町を賜る)の裔孫 長幸(高津與次、

南朝の忠臣)、その裔、今 中島氏」とあり。

31,他


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