内   藤(ナイトウ)

解説

天下の大姓の一つにして、全国至る所にあれど、殆ど藤原姓と

称す。

東京都国分寺市にこの地名(天正十八年、関東奉行・内藤清成、

領地を賜り居住により内藤宿 起こる)あり。

分派氏族

 

1,秀郷流藤原姓 秀郷の子 千時の四世の孫・頼俊の子 行俊、内舎人たりしにより、

内藤撿校と云い、その後裔、その称号を氏となすと云う。 尊卑分脈に

 「秀郷−千時(鎮守府将軍)−千晴(将軍太郎)−正頼(下野守)−頼清(従五下)−頼俊(左近将監)−行俊(内藤撿校)、弟季俊(右馬允)−季賢」とあり。

2,藤原北家道長流説 内藤系図に

       「関白道長−頼高−僧 覚祐−祐ェ−肥後守盛重、弟 筑前守 盛遠(

       鳥羽院御宇、初めて内藤の氏を賜う)」と。

3,藤姓椿井氏流 山城発祥にして、椿井氏房の四代 政賢、尊氏に仕う。その孫

       「政信、その四代孫 政勝−越前守政吉−政長−政次−正興(外家の

       内藤を称す)」。家紋 十六葉裏菊、さざえ、下り藤。

4,伊勢の内藤氏 伊勢新九郎に従い下る士に内藤氏あり、本国丹波と云う。

5,尾張の内藤氏 愛知郡の名族にして、古い渡村の人に内藤庄助あり、織田信長の補佐となる。

       又、犬山藩重臣に内藤林右衛門あり、家を出で芭蕉の門に入り、丈草と号す。

6,三河の内藤氏 応永の頃 当国に見え、後世は 本姓中最も栄えた。

       三河内藤氏は54家 ェ政系譜にあり。

       日向延岡 七万石 家紋 下藤の丸 額の内藤の文字、巻絹、唐鳩酸草。 明治 子爵。

7,遠山流 −陸奥湯長谷 一万五千石 家紋 下藤の丸 明治 子爵

8,擧母内藤氏 三河擧母二万石 家紋 下藤の丸 明治 子爵

9,信成流 −越後村上五万石 家紋 下藤の丸 明治 子爵

10,甚三流 −信濃高遠三万三千石 家紋 下藤の丸 明治 子爵

11,仁兵衛流 信濃岩村田一万五千石 家紋 下藤の丸 明治 子爵

12,遠江の内藤氏 山名郡(周智)馬箇谷村の名族にあり。

13,秦姓 − − これも遠江の内藤氏にして、磐田郡貴平村の八幡社(大宮、中宮、沖宮)の神主にして

姓は秦氏なり。

14,駿河の内藤氏 − − 当国の府中 浅間惣社の庁分役に内藤兵庫ありて、内藤大夫藤原某の後と云う。

15,甲斐の内藤氏 − − 承久記に「武田小五郎信政の家臣に内藤七、内藤八」とあり。

又、当国八代郡の九一色衆に内藤孫三郎、内藤織部あり。

又、ェ永系図に清和源氏武田氏流に「源助正重(ェ政系譜には政経、正経。武田信玄、勝頼に仕う)

−源左衛門正次」とあり。後には藤原姓、内藤修理亮昌秀の四男 正経と称す。

16,工藤氏族 − − 武田家臣にして、天文十五年、工藤源左衛門、氏を改めて内藤修理亮昌豊と云う。

永禄六年、箕輪城代となり天正三年、長篠に戦死す。その子 修理亮昌月なり。系図に

「昌豊−織部種次−甚右衛門種昌、家紋、下り藤の丸、丸に花菱、丸に十文字」。

又、一説に秀郷流藤原氏にして「行俊の後、十七世 昌盈−虎資−昌豊−豊俊、弟 昌月、

家紋、下り藤」とあり。

17,御岳衆 −御岳の社家 別当出雲家には、天正年間、出雲好言あり。次に社人 千日、

伊勢家には天正年間、伊勢正章あり。伊勢家 秋山九左衛門重常に男子なく、

千日正章の次子 左京重正を養いて嗣となす。よって内藤と改め、伊賀と云う。

安芸家は、石原治右衛門正途の後なり。壱岐家は、七左衛門正寿の後なり。

讃岐家は、塚田佐吉信久の後なり。その他、筑後、造酒、摂津、豊前、土佐などあり。

壬午起請文に「御岳衆 内藤」。

       文政九年九月文書に「社僧弥勒寺、社人別当、内藤出雲、同 千日、

       内藤伊勢、年寄惣代 内藤筑後、神主年番 内藤摂津、同 内藤伊勢」とあり。

18,相模の内藤氏 − − 小田原分限帳に「中郡愛甲 三百二十五貫、津久井衆 内藤左近将監領」とあり。

又、井上系図に「左衛門尉基孝、甥 相州 高岩の城代 内藤周防守頸討死仕る也。嫡子 助次郎云々」と。

19,武蔵の内藤氏 − − 橘樹郡の旧家に存す。新編風土記に「先祖は内藤豊前の弟 内匠之助と云えり。

内匠之助は、吉良家人なり。初め、吉良左兵衛佐、三河国より上野国へ移り、それより又

当国 世田谷に移る。よりて内藤兄弟も永正年中ここに来たれり。この人、上野国にたてる

大戸明神をここに勧請せり。その後、天正六年八月十七日に死せり。その子を兵庫と云う。

慶長二年十月二十四日死す。兵庫の弟 弥左衛門は、文禄元年 分家となる。この人も初め

吉良に仕えて小姓を勤め、弥次郎と云えり。後、弥左衛門と改む。それらの子孫延蔓して

今、八 九軒に及べり」とあり。

又、内藤三郎兵衛、役帳にあり。湯田 箕輪十八貫文を領す。

又、「埼玉郡柏間陣屋(柏間村)は、内藤四郎左衛門正成の住せし地にて、後 旗下の士 一統、

江戸に移りしより、ここには留守居として 在住の家人一人、そのほか江戸より家人一人づつ

交代して守らしめしと云う」と。

又、元宿村の人 内藤某は、内藤新田を開発す。

20,平姓 − − 先祖 相模国の梅澤り起こり、梅澤氏を称す。景守に至り、内藤修理の号を称す。ェ政系譜に

「佐渡景之(武蔵八王子)−佐渡景次(北條氏輝の家臣)−主水元景−権九郎景守(正景)−景忠、

家紋、下り藤の丸に十文字、五三の桐」と。

21,上総の内藤氏 − − 鎌倉二代将軍 頼家滅亡の際、その家臣 内藤氏等、望陀郡坂戸市場村に来り、

その地を開墾すと云う。

又、国志に「永禄五年五月、里見義頼、一宮城主 内藤久長と隙あり」とあり。

22,常陸の内藤氏− 新編国志に「内藤。和光院過去帳に『道空、癸酉十月十七日、

       内藤太郎左衛門 壬生に出で討死』とあり。癸酉は、天正元年なり、

       これは江戸氏の家人と見えたり」と。

23,信濃の内藤氏 − − 翁草に、鎌倉時代 武士の所領を挙げて「一万五千町、信州の内、内藤次郎秀長」と。

24,上野の内藤氏 − − 内藤修理あり、群馬郡保土田城に拠り、又、石倉城をも兼有す。内藤村あり、

「この氏が領せしよりの地名なるべし」と。

25,清和源氏武田氏族 − − 若狭の内藤氏にして、若州武田系図に

「国信−元光−某(内藤内蔵助、常に歌道を好み、宗祇を師とし、若州に住す。元光の実子たりと雖も、

故ありて許容せず。故に内藤某、養って子と為す。これを以って改姓して、内藤の称号を用う)

−重政(筑前守、天下城主)−政高(筑前守)−長縄(大蔵介)−長教(伝左衛門尉)−長富(八右衛門)

弟 長武(伝之丞)」とあり。

又、寛政系譜に「武田国信−伊豆守元信−伊豆守元光−政信(内蔵助、内藤と称す)−筑前守重政

−筑前守政高(秀吉の時)−理兵衛長縄−伝左衛門長教−伝兵衛長武。家紋、割菱、七葉下藤丸に内文字」と。

当国 山中村城は、内藤豊後守の出城にして、神野村城は、豊後守の居城と云う。

26,丹波の内藤氏 − − 第1項の裔にして、伝え云う

「当国の大族にして、撿校 行俊の子 惟季、その子 盛俊、頼朝に仕えて功有り。その子 左衛門尉盛家、

その子 右衛門尉盛親、その弟 左衛門尉盛時、その子 七郎左衛門盛継、その子 四郎左衛門親家、

その子 豊後四郎左衛門、鎌倉将軍に仕う。その孫 丹波国曾地の地頭職となる。これ当国内藤氏の祖なり」と。

又、太平記巻十五、将軍(尊氏)都落ち條に「将軍は その日、丹波の篠村を通り、曾地の内藤三郎左衛門

入道道勝(道珍)の館に着き給えば、四国、西国の勢は、山崎を過ぎて 芥河にぞ着にける」とあり。

又、明応の頃、内藤左衛門四郎秀継あり、細川家に属す。応仁の乱には、内藤備前守、当国守護代として、

山名勢を防ぐ。

又、応仁私記に「内藤大炊助藤原正景」とあり。

又、「永正五年四月、細川高国、丹波守護代 内藤貞正等と兵を合わせて京都に入る。澄元、将軍義澄と供に

近江に逃げる。同 八年八月十六日、将軍義植、細川高国と供に、丹波に入り、守護代 内藤肥前守貞正の

邸に拠る。同十七年五月、貞正、兵 八千を率いて七社に陣し、澄元を阿波に走らす」と。

又、細川両家記に「天文十四年、細川氏綱方の内藤備前守、丹波国の関と云う所に出張して、山城を

構えて立て籠もる。云々。同 二十一年九月、松永兄弟 大将にて、丹州出陣云々、内藤備前守と池田、

堀内を討取る。この時 内藤方の城、丹波八木 難儀に候所、松永甚助は、内藤備前守の婿なりければ、

この八木城へ懸け入る」とあり。

見聞諸家紋に「勝元の被官 内藤弾正忠元貞、家紋、輪鼓に手鞠」とあり。

又、戦国時代、内藤飛騨守如安(徳庵)あり、伝説によれば「信長に仕え 丹波二十万石を領す。

如安 封を継ぎ、後、小西行長に仕え、朝鮮の役、明と講和の使節となる。後、加藤清正の臣(五千石)、

慶長元年、前田利家に仕え 四千石を賜いしも、耶蘇教を信じ、呂宋(ルソン)に配せらる。その子

采女好次(休甫)、加藤清正に仕え(三千石)、後、前田侯に仕えて千七百石たりしも、父と共に

呂宋に行き、帰朝して、能登荻谷村に住居せり」と。

27,八木の内藤氏 −上記 多紀郡曾地(日置村曾地)内藤氏の一族ならん。船井郡八木城(八木村西北の山)は、

この流の居城にして永禄の頃、内藤備前守宗勝あり。又「内藤法雲の居城」と見え、

       又「天正中、八木城、内藤日向守」などとあり。

       又、桐野河内高山の城主に内藤備中守季有り。

28,加賀の内藤氏 − − 加賀藩給帳に「四百五十石(紋、下り藤丸)内藤十兵衛、四百五十石(紋、下り藤丸)内藤勘兵衛、

二百石(抱杏)内藤宗春」とあり。

29,伯耆の内藤氏 − − 当国日野郡の名族にして、伯耆志に

「茶屋村の矢原神社 旧神主 内藤氏は、秀郷流藤原氏の内藤行俊の裔と云う。その数代の孫

新三郎幸俊は、尼子氏に仕え、その長子 朝俊、当社の社司となり、その孫 常次、外戚の氏

千原を称し、その四世 茂定に至って 本姓に復す」とあり。

30,出雲の内藤氏 − − 日御碕神社の中官に内藤氏あり。

31,備前の内藤氏 − − 太平記 巻 十四に「備前国の住人 内藤弥次郎」とあり、又、巻 三十二に「内藤與次」あり。

32,美作の内藤氏 吉野郡粟井庄小野村庄屋にこの氏見え、又、勝田郡中山村に存す。

33,安芸の内藤氏 − − 当国守護 武田家の重臣にあり。又、熊谷家臣、毛利家臣にも多し。

棚守房顕記に「大永の頃、内藤孫六 云々」とあり。

又、安西軍策に「内藤六郎左衛門、内藤十郎兵衛、内藤弥四郎、内藤九郎兵衛」等の名あり。

又、芸藩通志に「高田郡田屋城は、毛利家人 内藤河内の守る所」とあり。

又、「高宮郡の下町屋村の内藤氏、先祖を内藤又八と云う。熊谷氏に属し、天正十一年、

出雲赤名の戦いに功あり。大内氏の感状、及び熊谷氏の肖像とを蔵す」とあり。

34,防長の内藤氏 − − 第2項の裔なり。

長門国守護代記に「盛世の子 肥後守盛貞、入道智得に至り、始めて大内氏に属し、大内盛見の時、

長門国の守護代となる。これより世々 長門守護代たり」とあり。

系図は「筑前守 盛遠(鳥羽院御宇、初めて内藤の氏を賜う)−盛定−盛家(周防国遠石荘の地頭)

−盛時(肥後守、建長六年卒)−有盛(七郎)−時信(孫六郎)−盛兼−盛信−盛世(遠江守)

−盛貞(肥後守、永享十年逝)−有貞(美濃守、山口逝去)−盛世(下野守)−弘矩(肥後守)

弟 弘春−興盛−隆時、弟 隆春。家紋、下り藤に内の字」

又、内藤左衛門尉時景(盛時の子、弘安出家)、その子 時家の譜に「孫六郎時信の代、

弘中権守兼綱(法名、白連)の息女字・愛得(法名 仏心)、息女 願聖・内藤孫六郎の妻。

この代より 小周防東方領主、弘中家より婿となして、内藤家の本領として譲る」とあり。

隆春の養子 元盛、その子 元珍、大阪の陣で 秀頼方の為、切腹。

元珍の長男  元宣は 母方の志道姓を称し、毛利氏に仕え、その孫の代に内藤姓に復す。

その後、明治に至る(船木村・末益村 八千三百七十石を賜う)。

35,阿波の内藤氏 故城記に「阿波郡分、内藤殿、藤原氏、家紋 藤の丸立子」とあり。

36,土佐の内藤氏 − − 長曾我部元親の家臣に内藤左衛門あり、又、江戸時代、山内家臣に内藤氏あり、

その先、甲斐国より来ると云う。その十二世の孫に内藤三左衛門中心あり、事によりて

国を去り、備中に移ると云う。

37,肥前肥後の内藤氏 − − 嘉吉三年の菊池持朝侍帳に「内藤弾正忠弘宗」等の名あり。

38,越後の内藤氏 上杉謙信の将に内藤久弥あり。

39,他


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