長   屋(ナガヤ)

解説

和名抄、大和国山邊郡、伊勢国度会郡に長屋郷あり、上総に長屋の荘園、和泉に長屋庄あり、その他 相模、石見、安芸、薩摩などに

この地名あり。

 

国土基本地図に15ヶ所あり。

 

1、桓武平氏鎌倉氏族 美濃国の名族にして、鎌倉景政より出づと云う。

     新撰志、不破郡乘井村條に「長屋氏城跡は、南宮の鳥居の西のあたり、少し高き地にて、

     今、里人が長屋屋敷と呼ぶ所なり。鎌倉権五郎景政の曾孫 長江八郎師景の弟 長江

     四郎明義の子 長江四郎胤明、承久の乱に軍功あるにより、相模国長屋の地を領して住す。

     その子 長屋弥七郎行景、長屋氏の祖なり。その子 長屋小四郎景頼、一族 長江秀景と

     共に相模より美濃に来り、秀景は今須に住し、景頼はここに居す。

     その子 七郎宗秀、当国の守護 土岐の旗下に属す。その子 二郎兵衛宗房、その子

     伯耆守景家、その子 掃部助景国、後、隼人佐と号す。その子 淡路守景森、義教将軍に仕う。

     その子 小四郎景元、当城にありて、 土岐政房に属す。その子 太郎右衛門景教、永正

     十六年戦死、その二男 将監景重、乘井の城にありしよし、長江系図に見えたり」とあり。

     又、山県郡板取城は長屋信濃守住すと云う。

     又、本巣郡曾井(山添村)の住人に長屋信濃守義豊あり、この信濃の城は、濃陽志略に

     「田口にあり、伝え云う、文禄年中 人乱を避けて この洞に入りて城を築いて居る。

     子孫 今に至りてこれあり。その白谷に住する者 嫡家にして、代々 郷豪となりて国境を

     警護す」とあり。

2、幕臣長屋氏 ェ政系譜 平良文流に収め

     「新五郎景恵(正徳三年、始めて家綱に拝謁)−兵三郎景武−左門景本−景道−景郷、

     家紋 五七桐」と。

3、石見の長屋氏 安西軍策に長屋縫殿介、長屋縫殿允などの名あり。

     又、石見志に「那賀軍郡久佐村大字 長屋屋敷の守将 長屋縫殿介」とあり。

     又、邇摩郡大田村の神職に長屋大炊あり。

4、佐伯姓 安芸国高田郡長屋村より起る。

     芸藩通志に「槙城、亀山 並びに長屋村にあり、共に毛利家人 長屋下野の守る所。

     一説に下野は、佐伯興藤の後、忠弘の男なり。始め中馬にありて、中馬左馬介と称す。

     後、氏を改めここに移る。その子 また下野と称して二代 この城に居りし、と云う」とあり。

     又、「星城、高野 桂、二村の間にあり。星野市兵衛居り、後に長屋下野 別館とす」とあり。

5、藤原姓 上記と同族か。

     安芸国高田郡長屋村の神職長屋氏は、ェ永の許状に藤原と載せ、系図には増原と云う。

     神職波多野氏より養子し、後、石見の長屋大炊 浪人して来り家を継ぐと伝う。

     家紋 六角に吉字。

6、加賀藩の長屋氏 加賀藩給帳に

     「二千三十石(家紋 丸の内二ツ引) 三百三十石与力知、長屋左近。八百石(家紋

     丸の内三矢羽)長屋七郎右衛門。九十石(家紋 丸の内二ツ引)長屋仙次郎」とあり。

7、弓術家 江戸時代 尾張藩の長屋六左衛門忠重は、「三十三間堂通し矢」で有名なり。

8、他


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