長   野

解説

諸国にこの地名ありて数流の氏を起こす。

分派氏族

 

1,河内の長野氏 楠木氏配下の士に長野左衛門あり。又、永禄二年、交野郡総

       侍連名帳に「杉村 長野隠岐守成ェ」を載す。

       又、天誅組の士に長野一郎ェ道あり、大ヶ塚村(錦部郡長野村)の人、

       旧姓 吉井氏医家なり。正五位を贈られる。

2,藤原南家工藤氏族− 伊勢の名族にして、安濃郡長野より起こる。勢州四家記に

       「工藤の一家とは、工藤左衛門藤原祐経の後胤なり。先祖 工藤治郎左

       衛門尉親光、足利尊氏卿に仕え、子孫 繁昌して勢州 安濃郡長野に居住

       し、名字を長野と号せり」と。

       三国地志に「祐政(祐経の孫 薩摩守祐長の三男、延応元年初めて長野

       に住し長野家と称す、駿河守)−祐藤−友房−藤房−豊藤−経藤−義藤

       −光忠−宗忠−政藤−藤継−藤直−通藤−稙藤−藤定=具藤(国司

       北畠具教の二男、長野次郎と号す、天正四年十一月二十七日、織田侯に

       逼られ自栽し、ここに至り十六代にして滅亡す)」と。

       家紋 三引両。

       又、中興系図に「長野。藤原姓、家紋 桐、三引両。狩野四郎大夫家次 四代」とあり。

       又、幕末に長野主膳義言あり、飯高郡瀧野村の人、大老 井伊直弼に

       用いられ幕府の為、京都に活動す。この族か。

3,村上源氏北畠氏族− 永禄の初め、上記 長野祐則、北畠具教の二男 具祐を請い

       て嗣とす。北畠系図に「具教−藤教(長野二郎と称し、長野御所と云う)」と。

3−U,織田氏族 四家記に「信長公 それより北伊勢の諸侍衆を案内者とし、

       工藤家を攻めんとて、安濃津まで打ち入りぬ。まず細野九郎右衛門の城、

       細野を攻めらる。細野、剛者たるにより落城せず。然る所に分部左京亮

       川北内匠助、長野に叛き、信長公の幕下につく。この人々云えりしは、

       長野家の名跡をすえられば、長野次郎を追い出し、皆 味方に参るべき

       と也。これによりて、信長公の舎弟 織田上野殿を長野の名跡と定め、

       別府上野にすえらる。即ち、神戸蔵人太夫の姉婿に仰せつけらるとなり。

       これによりて長野次郎は追い出され、父 国司を頼み、南伊勢へ引退る」と。

4,藤原姓 尾張の名族にして、先祖孫助信方、当国にて恒川を称し、その子

       治助方正、織田上野介信包に仕う。信包 伊勢長野家を継ぐに当たり、

       方正 長野の称を賜うと云う。ェ政系譜に

       「治兵衛(方正の子)−治左衛門広門−作右衛門広行、家紋 丸に三引、剣花菱」と。

5,坂上氏族 近江国愛知郡長野庄より起こる。谷氏家譜に

       「坂上氏。山本直四世の孫 漢谷応宇志の男 谷直塩手、天武帝に仕う、

       四世法麻呂、延暦四年宿禰姓を賜う。その裔 六郎右衛門允入道、近江

       国甲賀郡長野地頭に補せらる。曾孫 重宣、足利氏に仕え、長野郷を領

       す。その四世孫 高衛、足利義教に仕う」と。

6,桓武平氏畠山氏族 武蔵国埼玉郡長野村より起こる。尊卑分脈に

       「畠山庄司重能−重清(長野三郎)」と載せ、又、千葉上総系図に

       「秩父重弘−重能−重清(号 長野三郎)」とあり。

       新編風土記 埼玉郡長野村條に「按ずるに、東鑑に畠山重忠の弟 長野

       重清と云う人を載す。これ恐らくは当所の住人にして、在名を氏に唱え

       しならん。管領上杉の老臣に長野信濃守などあり。又、忍城の成田の

       家人に長野一孤齋と云う者あり。これなど重清の子孫などにや」と。

7,武蔵の長野氏 大里郡熊谷町の名族にあり。「先祖は伊勢国の住人 長野

       越後守某 、忍城(今 行田)の成田氏の客分として寓居せしに、彼の城

       落去の後、当所に移りて、子孫世々土着して熊谷宿の名主本陣を兼役す」

       と云う。その家譜、記録の伝なければ、詳かなることは知るべからず。

       されど先祖 越後守の孫 喜三の時、成田氏より出せし文書四通を持ち

       伝うれば、旧家なること論なしと。

8,在原姓 − − 上野国の名族にして、群馬郡長野郷より起る。簑輪城主なり。

簑輪軍記に「上野国群馬郡簑輪城主、長野信濃守業政は、古今の勇士なり。殊に在原業平の

末葉にて、智仁勇の三徳を兼備せり。

関東管領 上杉憲政公の家臣にて、弓矢打物、度々名を顕わしたる勇士なり云々」とあり。

又、国志に「大永六年、伊予守信業 築く。その子 信濃守業政、後、左衛門大夫と改む。

英雄にして忠義の士なり。旧恩を重んじ、平井滅亡の後も上杉に仕えて終始志を潰えず。

信玄 西上州を覗うこと八年、度々手痛き戦ありと雖も、この業政生存のうちは、遂に手に入れる事

能わざりき。永禄四年に業政 卒し、長年寺に葬る。息子 左京亮業盛、父の遺命を守って志を変せず。

六年正月、信玄 大に兵を挙げて、上州を却略し、諸城を屠り、終に簑輪を囲む。業盛死を期して

防戦せしが、二月十二日、城遂に陥落、業盛 自殺す。時に年十八歳なり」とあり。

9,前橋の長野氏 − − 上記の後なり。前橋風土記に「前橋城は、延徳年間長野左衛門尉宗貞の築く所と伝う。

その後 天文年間、長野道安 当城の主たり。道安の子 長野弾正入道道賢、永禄元年ここに居る。

長尾賢忠、又この地を守る。五年、賢忠、上杉謙信に殺され、謙信、その将 北條丹後守をして

之に代らしむ」とあり。

10,幕臣在原姓 − − ェ政系譜に「善大夫重恒−善右衛門業峰、家紋、檜扇、丸に八文字」と。

11,磐城の長野氏 行方郡(相馬郡)の名族にして、天正の頃、長野一露あり、

       牛越城を守るとぞ。又、田村家家臣にもあり。

12,能登の長野氏 − − 三州志、鹿島郡曲松城(三引保内)條に「観応二年八月十八日、吉見参河守、

三引保赤蔵寺に保むを、桃井直信押し寄せ、ついに接戦、九月十六日、長野彦三郎家光、

三引保曲松の要害を攻め取るの処、敵徒進み来り、日々撃戦、同十九日、二十日には、

三引南山へ攻め上り、同二十一日には、攻兵を越中へ追い去らしめること、家光の軍忠古状に詳なり」とあり。

又、長野彦五郎季光あり、数々敵を破る、その軍忠状にあり。

13,備後の長野氏 − − 芸藩通志に「茶臼山鬼城は、下川立村にあり。長野五郎の所居なり。上里村寺戸の

八幡宮の棟札に、長野小左衛門と云う者あり、弘治中の人、五郎と一緒なりや」とあり。

14,清和源氏吉見氏族 石見の長野氏にして、美濃郡道川村の道川城主に

       長野美濃守頼久あり。石見志に「清和源氏吉見弘信(石見四代)の二男

       美濃守は、天文の頃、吉見正頼の侍大将たり。鹿足郡長野に居り氏とす」とあり。

15,清原姓 − − 豊後の名族にして、球珠郡永野郷より起る。図田帳に「長野庄 七十町」とある地なり。

伝え云う、「少納言清原正高、貶められて豊前介に左遷され、当郡古後郷に客居し、

矢野久兼の娘を妻とし、正道を生む。正道、当郡の大領に補せられ、五子を生む。

長子 助道は、長野太郎と称し、家を継ぎ大領となり 船岡山に居る(豊後遺事、国志)」と。

16,桓武平氏 − − 豊前国の名族にして、企救郡の長野郷より起る。

豊陽古城記に「保元中、平康盛 豊前国司となり、城を規矩郡長野郷に築きて居り、よりて

長野氏と称す」とあり。

国志に「長野に浄土宗護念寺あり、長野氏の菩提所なり。長野氏は 十三代相続したり。

その祖は 左大臣平時盛の六男 修理大夫康盛にして、康盛、国司となりて保元二年下向し、

郡内長野山に城を築き、自ら長野と号し、八代 種盛の時に、大三ッ岳、小三ッ岳、下長野、

丸箇口、福相寺、稗が畑、椎の城等を築き、長野一族の氏城とす。規矩掃部頭の代になり、

蒲生に居城し、天文の頃より又長野居城となる」と。

17,大蔵姓− −筑前の大族 秋月氏の族にて、種信を祖とすとぞ。後世、原田家臣に長野監物あり。

18,調姓黒木氏流 − − 筑後の名族にして、黒木系図に「源助能−筑後守定善(調姓)−成実、弟 長野祖」とあり、

開基帳に「長野氏は、竹野郡小川村に住す」と。

天正十五年、秀吉、上筑後の内 二百町を長野氏に与えると云う、何れの長野氏か。

19,清和源氏宇野氏族 − − 肥後の名族にして、山鹿郡長野村より起こる。阿佐古武貞の弟 

長野右俊の後にして、隈部系図に「宇野刑部允忠行の子 阿佐古式部大輔武貞の弟

右俊(長野修理亮、山鹿郡長野村を領し因りて、家号を改めて長野となすと)−重郷

−重運(備前守)−運貞(備前守)−運俊(清左衛門)−運光」と。

又、永正二年連署に「長野備前守運貞、長野清左衛門運俊」と。

20,阿蘇氏族 − − 肥後の名族にして、健磐龍命の子 「速甕玉命−惟人命、以下十世 頼高に至り、長野氏を称す」と云う。

21,宗氏族 対馬佐護郡なる宗氏族は、天文十五年より この氏を称せしむ(宗氏家譜)と。

22,他

 


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