武   藤(ムトウ)

解説

武者所たりし藤原氏の意也と云い、又 武蔵の藤原たりしより

起こると云うのも有り。

分派氏族

 

1,藤原北家成田氏族 武蔵の藤原氏の意味にて、成田系図に

       「謙徳公孫 武蔵守基忠−宣直(騎西郡司)−家忠(武蔵大夫・蔵人大夫)」とあり。

2,駿河の武藤氏 益頭郡神神社 神主に武藤左門あり。

3,秀郷流藤原姓近藤氏族 尊卑分脈に

       秀郷五世孫 近藤太脩行−左衛門尉行景−島田権守景親−武者所景頼(島田二郎・

       近藤武者)−頼平(大蔵丞・武者所たるにより武藤と号す。)

4,武蔵の武藤氏 東鑑、ェ喜四年二月條に「武蔵国六所宮 拝殿破壊、修理の儀あり、

武藤左衛門尉資頼これを奉行す」と。

5,遠江の武藤氏 − − 伝え云う「当国山名郡(或いは 周智郡)一宮城(宮代村)の真田山郭は、元亀年中、

当国の目代 武藤刑部亟氏定、武田氏に従い、甲州の士を招いて当城を築く。時に

神主 鈴木豊前守藤原重勝、これを徳川氏に告げ、その命により、元亀三年九月二十二日、

本城を焼く。天正元年、武藤刑部氏定、徳川氏に降る」と。

6,甲斐の武藤氏 − − 東鑑 元暦元年條に「一條次郎忠頼の郎党に新平太、同甥 武藤與一」とあり。

又、承久記に「武田小五郎信政の郎党 武藤新五郎」とあり。

7,清和源氏武田氏族 − − 武田系図に「大井次郎信達の子 三郎左衛門 信堯(武藤跡を継ぐ、一代歌人、

信濃国の砥石原に於いて、海野、村上義清と合戦、討死、時に天文十九年十月一日)−竹千代」とあり。

又、信堯の弟は、常知(武藤甚右衛門)とぞ。

8,尾張の武藤氏 中島郡馬寄村の士に武藤惣左衛門(信長に仕う)、武藤掃部助雄政あり。

       又、安西軍策に武藤弥兵衛(信長方)あり。

9,美濃の武藤氏 − − 伝え云う「当国本巣郡の十七條城(船木村)は、延元中、土岐頼貞の

四弟(頼遠の弟)船木三郎頼胤の築城なり。北畠顕家の東上するや、頼胤、頼遠に従いて

青野原に出で、重傷を負い 河手城に退き、暦応元年五月十一日、遂に卒す。幼少の子あり、

その臣 船田某、これを養育して十七條に住せしが、成長して武藤次郎藤原頼実と名乗る。

頼胤の妻女 武藤氏の姓なる故、母方の氏とも云う。後、頼実、近江 塩津の合戦に大敵を引請け、

武勇を著わして討死す。その子 武藤七郎、武藤八左衛門と云う子ありしが何国へ行きけるか

その先を知らず」と。

又、山縣郡白谷城は、土岐氏の臣 武藤淡路守 住し、後、長屋若狭守住すと云う。

新撰志に「広見村古城址は、松見寺山の上にあり、武藤淡路守が住みしと云い伝えたれど、

いつの頃の人か、今 定かならず」とあり。

10,常陸の武藤氏 − − 新編国志に「藤原氏にして武藤資頼の後なり。那珂郡谷田村にこの氏あり」と。

11,筑紫の武藤氏 − − 永仁七年四月十日の鎮西引付に「二番、武藤筑後前司」と。

又、嘉暦二年のものに「武藤四郎、武藤修理亮」の名あり。

又、梅松論巻下に「武藤対馬小次郎資頼、武藤豊前次郎、少弐の一族 武藤豊前次郎」とあり。

又、少弐系図に「四代盛経−資法(少弐但馬権守、法名 崇賢)−武資(河内守)−

貞法(武藤但馬権守)−経稔(左近将監)−経重(武藤蔵人)−尚重(刑部少輔)−尚門(筑紫下野守)」とあり。

又、宗氏家譜に「建久年中、武藤知宗、斎藤盛真をして 山鹿荘に居らしめ、御牧の事を掌らしむ」とあり。

又、筑紫系図に「城小次郎顕基−頼充(武藤越前守、康安元年七月十九日、大宰府にて討死)」とあり。

12,豊前豊後 武藤頼宗入道定西、企救郡吉田村を開発し、その男 頼村入道 崇観は、

元弘四年正月、村内 八幡以下四社へ神田を寄進す。

       又、後世、豊後の儒者に武藤吉祥(虎峰)あり。

13,肥前の武藤氏 − −少弐頼尚の四男頼光、武藤出雲守と云い、その男 出雲兵部大輔頼資は、

肥前の櫛田神社の大宮司の祖なり。

又、朝日河内守武資の男 顕資は、武藤越前守と称す。子孫、佐賀藩 及び大村藩に存す。

14,肥後の武藤氏 − −小代文書の建武五年六月に「武藤資時 並びに菊池武重以下 凶徒 云々」とあり。

又、佐田文書、観応元年十二月のものに「武藤対馬左近将監入道跡、内 肥後国岩野村」とあり。

15,美作の武藤氏 − − 森家臣に武藤虎蜂あり、提宝山流の柔術に長ず。

又、青山系図に「武藤伊右衛門、その男 十兵衛、八右衛門」等の名あり。

16,丹後の武藤氏 太平記巻十九に「丹後国住人 武藤右京進政清」あり、

       北畠顕家(南朝の将)の首を取り、功を以って佐野の荘を賜る。

17,若狭の武藤氏 − − 国主 武田信賢の臣に武藤上野介友益あり、当国大飯郡佐分利村の石山城主なり。

天文二年、梵音山 海元寺を開基す。

又、大谷山城は、三松村の大谷山にあり、武藤上野介の出城と伝え、岡津村の海坂山城も

武藤上野介の出城なり。

武田系図に「武藤上野介は、殊に故 屋形に反して信長と一戦し勝利なくして退去す。

後、瀬山城、これより後 滅亡」とあり。

又、大飯郡の本所村城は、武藤彦左衛門の古城にして、天正年中没落す と云う。

18,会津の武藤氏 − − 新編風土記 耶麻郡荻野村條に「館跡、武藤出雲員綱と云う者住し、

天正の頃 その子 右馬允與綱住せりと。

又、旧家 武藤平大夫、この村の肝煎なり。武藤出雲員綱の後胤なりと。ェ永の頃、

蔵人 某、村長となり相継いで今の平大夫まで八世なり」とあり。

又、新宮村の熊野社の棟札に武藤和泉守の名あり。

又、会津郡「東城戸村の旧家 長左衛門、先祖は 武藤右京佐真正とて、葦名盛氏に仕え、

天満十二村を領せり。真正の子 弥五郎真次、相続いで葦名氏に仕え、天正十七年、

磨上の軍 敗れて後、この村に屏居し、祝髪して是戒と号す。慶長四年、上杉景勝の家臣

野田丹右衛門、己の驍勇を負み、動もすれば主命を蔑如せり。景勝これを悪み、

是戒に命じて討たしむ。是戒の子 真忠、これを聞き、己一人にて遂に野田を斬る。

父子共に喜び、景勝に謁し、感賞大かたならず、太刀と田地五段を与えしとぞ。

今の長左衛門は真忠の七世の孫なり」と。

19,出羽の武藤氏 − − 第3項の頼平の子 資頼の弟 氏平の十二代の孫 晴時、大山の尾浦城(鶴岡市)に

居城す(戦国時代)。

系図は「晴時=義増−義氏(出羽守)−弟 義興=義勝(上杉家臣となる)」。

20,幕臣(鎌倉)武藤氏 家紋 寄掛目結、引矢。

21,室町幕臣 文安年中御番帳に「二番。武藤孫五郎」と。

       又、常徳院江州動座着到に「二番衆。武藤弥四郎」とあり。

       見聞諸家紋に、寄せ縣け目結。

22,幕臣(江戸)武藤氏 ェ政系譜に

       大蔵大輔頼平(武蔵国居住)−太宰少貮筑後守資頼−豊前守資能−太宰少貮経資

       −同 盛経−但馬権守資法( 朝日武藤)−河内守武資( 武藤朝日)−但馬守貞法

       −経稔=経重(田村将軍の末裔、筑前国三笠郡筑紫村に住す)−尚重−下野守尚門

       −同 重門−筑後守満門−正門−下野守惟門−広門−春門−信門−茂門−利門−徒門、

       家紋 寄縣目結、弓矢。

       又「玄重−玄光、家紋 下藤の内に武文字、丸に菱藤」と言うのも有り

       又、彦左衛門安盛(山城住、三好長慶の臣、永禄十二年正月六日、飯盛山討死)

       −安成(増田長盛の臣、山城薪村住、後、家康に属し五百十石)−安信−秀信、

       家紋 下藤、五三桐、折紙、藤菱、蔓藤。

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