|
宗 像・宗 形・宗 方 (ムナカタ) |
解説 |
和名抄 筑前国に宗像郡あり、同国遠賀郡に宗像郷あり。 同地に宗像神社ありて天照大神の三人の姫神を祀る。 宗像神社諸国に勧請さるるにより、神主も各地に移る。 宗像氏は、その神の子孫にて名族なりと云う。 |
分派氏族 |
|
1,宗像君 − − 筑前国の宗像郡(牟奈加多)より起こる。出雲神族中、三輪氏に
ついでの大族なり。
2,宇多源氏 − − 筑前の宗像氏にして、宗像朝臣の後裔は、宗像神社の大宮司家
として、宇多天皇の時まで継ぎしが、延喜十四年に至り、源清氏を大宮
司となす。この清氏は、宇多天皇の御子なりと云う。その後、足利尊氏
九州に逃げる頃、大宮司氏俊ありて、尊氏に属す。下って、戦国の頃、
正佐、その子 正氏などあり。その子 氏貞に至り、子なく
お家断絶。
見聞諸家紋に、柏。
3,藤原北家 − − 山内首藤系図に
「師尹−大納言濟時−権中納言通任(宗形先祖)−師成−師季(正四位下、甲斐守)」と。
4,肥前の宗像氏 − − 文永六年八月 権律師隆杲 判所書に「譲り与う、肥前国小城郡晴気保の
地頭職の事。藤氏女童名千手(今は宗像女房と号す)、右件の庄は、隆景の曽祖父
尾張少将隆頼、事縁ありて、鎌倉の故右大将家より賜う所なり。ここによりて、
隆頼、息男 成亮に譲り、成亮息男 顕嗣に譲り、顕嗣、子息 隆杲に譲る。四代 相承領、
相違なきの次第、関東代々の御下文に明白也。而して藤原氏は同父一腹の妹たるの上、
亡父の遺言に任せ、調度、証文等を相副え、永く譲り渡さしむるの状、件の如し」とあり。
5,肥後の宗形氏 − − 託磨文書、建久十年分に「山本西荘下司 宗形氏勝」とあり。
6,筑後の宗像氏− −高良山古の社家にありて、古記に「七戸大宮司 宗形滋光」とあり。
7,伯耆の宗形氏 − − 当国會見郡宗像村に式内宗形神社あり、宗形氏の族、筑前の宗像
三社を勧請せしものならん。斉衡三年(856年)、従五位上なり。
8,安芸の宗像氏 − − 芸藩通志 加茂郡條に「熊野跡村、宗像氏。元祖 宗像壱岐守義治
阿蘇大宮司家あり、出でて筑前の宗像に居る。第八世 藤左衛門隆雄、初めて
この地に来り、大内氏に従い軍功有り。大内氏亡びて後、民間に降る」と。
又、「菅田村の宗像氏、先祖 宗像掃部丸、今川義元に属せしが、天文中、
この地に来り、月見館と云う所に居る。大内義長に組し、菅田三郎左衛門と称す。
後に、槌山の城に没す。それより三世、原村に蟄居せしが、また ここに来りて
村民となる」と。
9,常陸の宗形氏 − − 新編国志に「宗形、姓氏録、河内国神別の中に宗形君は、大国主命六世の孫
吾田片隅命の後也とあり。右京神別には、宗形朝臣あり、祖は片隅命とあり」と。
又、正応二年五月十五日、常陸国那珂郡の長福禅寺の鐘銘に「大勧進、比丘覚実、
宗形氏時、大檀那 藤原氏女」とあり。
10,岩磐の宗形氏 − − 田村郡にあり。新編会津風土記、大沼郡本郷村條に
「宗像神社神職宗像出雲。当社を草創せし祠官は宗像氏なれども、年代久遠に
してその名を伝えず。ェ文の頃、小林多聞と云う者神職を勤む。天和三年に多聞、
土津神社の昇殿役となりしかば、秋山勝直 代わって神職となる。勝直三世の孫
明盛、
子なくして若狭尚清を養子とす。即ち当社を草創せし、宗像氏の後裔にて、今の
出雲清池の祖父なりと云う。清池、始め秋山氏を称せしが 後、請いて本姓に復せり」と。
11,他
* 「ルーツ発見・名字の由来」のトップページに戻る