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森 田(モリタ) |
解説 |
下野 陸奥
越前 筑後などに此の地名あり。 新潟県上越市、静岡県浜松市、富山県富山市にこの地名あり。 |
分派氏族 |
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1,菊池氏族 − − 菊地森田系図に「武時−武重−武澄(肥後守)−武照(肥後守)
−武宗−親介−森田親元(対馬守)−隆親(大和守)−景親(佐渡守)
−長親−長芳(慶長五年始めて田主丸町を開き、元和中、馬場瀬祠、
及び栄福寺、法林寺などを創建す。菊地経頼、馬場瀬に水神を祭り、
これを馬場瀬六明神と云う。この時 今の地に移せしなり、明暦十二年
十月六日卒、九十七歳)−芳貞(致仕して菊地に改む、ェ文九年卒、八十歳)」と。
2,松浦氏族 − − 肥前の名族にして、波多系図に「源頼光の孫 松浦久の後」とあり。
3,土佐の森田氏 − − 元親記に森田兵左衛門見え、後、詩人に森田良太郎居敬あり。
その他 森田民部、森田勘助、森田次郎右衛門などあり。
4,佐々木氏族 − − 紀伊国続風土記に「伊都郡丁野町村 旧家地士 森田伊三郎、同 久右衛門。
家伝に云う、元祖は佐々木源三秀義六代の孫 佐々木佐平太武義の男 藤丸と云う。
藤丸、父 武義死後 孤となり、伯母聟 石河長次郎の養育にて成長し、河州の
森田五郎兵衛の家を継ぎて所領を受け、氏を森田と改め、名を正義と云う。元弘の頃
正成に属し、和州 邊栗合戦に功あり。その男 森田市郎兵衛義成は、四条畷の軍に討死す。
義成四代の孫 森田兵部大輔宗義は、畠山義就に属し、若江城に籠りて武功あり。
又、長野合戦に芋瀬兵太夫を討取る。宗義の男 森田中務大輔義辰は、武者修行して
甲州に至り、武田信玄に属し 大門峠の戦に功あり。永禄年中、六條本国寺の軍に
将軍家に属して、塩田右京を討取る。後、老年に及びて、当郡神野々村に蟄居す。
その後裔 当地に移住し、両家に分る。延徳の感状を蔵せり」とあり。
5,加賀の森田氏 − − 加賀藩給帳に「五百石(紋、丸の内に揚羽蝶)森田武兵衛」とあり。
6,河内の森田氏 − − 永禄二年、交野郡総侍連名帳に「津田村、森田紀内丞義末」とあり。
又、吹田屋六兵衛森田士徳(浪花 住)は、書家として名あり。
7,藤原姓 − − 大和国山辺郡の多田氏の旗下の士に森田兵部あり。
又、五條の人 森田文庵、その男に節斎あり、勤皇の儒者なり、江戸、備中等、
諸国を漫遊し、紀州に没す。
8,伊賀藤原姓 − − 当国の名族にして、下り藤丸を家紋とし、割菱を幕紋とすと云う。
天正の頃、森田浄雲あり、菅田左衛門佐を殺す。
又、猪田神社 天正十九年の棟札に「当社神職 森田惣兵衛」とあり。
9,三河の森田氏 − − 幕末、当国渥美郡牟呂村の牟呂八幡宮宮司に森田光義(国学者)あり、
その子光尋。
10,武蔵の森田氏− − 児玉郡にあり。風土記稿に「本庄宿森田氏。村の名主を勤む。
父 安平次、年久しく村のしまりを承り、それなどの事に付いては、
奇特の計らい多きを以って、文化十三年七月、公より御褒賞ありて
苗字は子孫に及び、帯刀はその身一代お許しあり。今の助左衛門も文化
年中 村民 干ばつで苦しみ、年の年貢整わざるを憐れみ、許多の黄金を
出して貢ぎ、又、食の事まで助けしを以って、時の御勘定奉行より彼の
奇特の行を褒賞せり。一郎左衛門も助左衛門の分家なり。本家と同じ
奇特の行いありしを以って苗字帯刀の許しあり」と。
11,那須氏族 − − 下野国那須郡の森田村より起る。
那須系図に「資隆の子 光隆(森田太郎)」とあり。
又、国志に「光隆・森田太郎、母は 小山大掾政光の妹」とあり。
又、那須政資の男 高資の弟「資胤(次郎、修理大夫、初め森田次郎と号す。
母は、大田原備前守 丹治晴清の娘。生害によりて本家相続、惣領となる。法名 江月)、
弟 資郡(初の名資安、森田と号す、後、福原弾正左衛門尉)」とあり。
12,歌舞伎役者森田家− −初代 森田勘弥(太郎兵衛)は、京都の人、二代はその養子、
初め坂東又九郎(坂東家祖)、三代は、後坂東又七養子、四代はその男 鍋太郎。
13,他
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