望   月(モチヅキ)

解説

数流あり。

長野県北佐久郡、大分県臼杵市にこの地名あり。

分派氏族

 

1,滋野姓 信濃佐久郡望月邑より起こる。当国の豪族にして、滋野系図に

       「滋野為広−為通−則広−重通−望月広重−国重−国親−重忠−重義−重隆(左近衛

       大夫将監・弓上手・頼朝の忠臣)−盛重−宗重−重惟−重信−光経−盛世−盛経

       −光盛−光重−盛昌−昌盛」と。

    *望月城は、下之城村にありて、望月氏代々の居所たり。甲陽軍鑑に六十騎と。

     天正十年七月、徳川勢に攻められて落城す。

     *滋野系図、三家系図、増田望月系図、他、で、それぞれ微妙に違いあり。

2,江戸幕臣 「望月右近大夫広重の支族、後 諸星氏、忠左衛門為直に至り、

       望月に復す」と。家紋 七曜、下藤丸、九曜、花菱、割菱、井桁

3,甲斐の望月氏− − 当国東山梨郡八幡村八幡北の望月氏は、諸星氏の後、と云う。

又、室伏村の望月氏は「もと竹居氏、母の姓 望月を称す」と云う。

又、「遠江の小山城は、甲州の望月七郎左衛門拠る」とぞ。

4,常陸の望月氏− −新編国志に「望月、水戸に家あり。本姓は滋野にて 信濃の著姓

       なり。武田氏 信州を併合するに及んで 武田に仕う。望月與惣兵衛は、

       穴山梅雪に仕う。子を覚弥と云い、子孫 水戸にあり。與惣兵衛の弟を

       與惣右衛門と云う。初め萬千代君に仕え、後、水戸に仕う。子孫あり。

       又、水谷氏の臣に望月駒助あり」と。

5,近江の望月氏 − − 当国甲賀郡の名族にして、藤原姓とも源姓とも云う。甲賀家伝に

「信濃国人 諏訪左衛門源重頼の嫡子 望月太郎重家(一説に信濃守重宗)、

二男 諏訪二郎貞頼(美濃守)、三男 望月三郎兼家(隠岐守)、云々」と。

輿地志略に「柑子城(柑子村)は、相伝う、望月氏代々の居地也と。望月元重と云う者あり。

その子 望月重晴、剃髪して小森入道沙弥源広と号す。その子 望月佐渡守重章、

その子を望月小森重義と云う。重義、元亀中、織田信長の為に亡さると。臣按ずるに、

伊賀地志に『信濃国望月の諏訪源左衛門源重頼、一男を望月信濃守重宗と云い、

二男を諏訪美濃守貞頼と云い、三男を望月隠岐守兼家と号す。近江半国の主となりて、

甲賀近江守と称し 晩年 伊賀守になる』と記す。その族類なるべし」とあり。

6,藤原姓 − − 上記に同じ。ェ永系図には 信濃滋野族とし、ェ政系譜には「藤原姓、近江に住し、

道庵宗元(源左衛門重元)の時より望月を称す」とあり。家紋、九曜の内に丸半月、半月。

重元は、信長に仕う、その男 忠庵宗慶は、外科医なり。

7,伊賀 伊勢の望月氏 伊勢神宮社家系図に玉串内人 喜早氏の系統は、

       「武田信虎−信繁−信知(望月、後に吉田)−忠知(望月、後に吉田)−知勝−知信」なりと。

       又、幕臣 伊賀望月氏は、家伝に「右近大夫広重の末孫 伊賀住人 彦平貞徳、

天正十年 家康に属す、家紋 十曜、丁子打違の丸」と云う。

8,紀伊の望月氏 − − 万治の頃、紀州藩の有田郡奉行に望月太左衛門あり、藩の反対を押し切って、

有田川右岸の新堂横堤を築き、村を洪水から救う。太左ノ宮として祠られる。

又、伊都郡三谷荘の兄居村の旧家にあり、続風土記に「地士 望月喜八郎。祖を

諏訪次郎右衛門と云い、代々 諏訪明神社の神主たり。元和六年、火災に遭い、

旧記灰爐となり、家伝の詳なるを失う。諏訪の末葉、諏訪を望月と改めて地士にて、

神職を兼たり」とあり。

9,伊予の望月氏 − − 予章記に「正平二十三年、恵良城に望月六郎左衛門、松浦、浅海、尾越等

楯籠もる」とあり。

10,肥後の望月氏 相良文書に「頼景、建久八年、頼朝 信州善光寺参詣 隋兵たり。望月三郎

ここに配封す。文書これあり。三郎 後に、四郎と改めて、肥後国球磨郡多良木荘に住す。

法名 蓮寂」と。

11,安芸の望月氏 芸藩通志に「小頃子山は、豊田郡東野村にあり。望月筑後(内蔵介)の所居」とあり。

12,他


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