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溝 口(ミゾグチ) |
解説 |
越前に溝口庄、その他 尾張 尾張
武蔵 常陸
伯耆 筑後 などに此の地名あり。 岐阜県岐阜市、兵庫県三田市、岡山県総社市にこの地名あり。 |
分派氏族 |
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1,少貮氏族 − − 筑後国下妻郡に溝口村あり、この地より起りしもあらん。
近藤建武四年八月文書に溝口太郎入道見え、善導寺鐘銘に「山門郡
瀬高下庄 埋長勝律寺 大檀那溝口藤原親資、応永二十三年云々」と。
2,藤原姓高木氏族− − 太平記延文四年、宮方に溝口丹後守能元、大永三年の大名衆
(小野村内宮棟木)に溝口殿、大友記に「大友旗本の大名、筑後国溝口」と。
又、領主附に「明応 文亀の頃、溝口常陸介(中関白の末、蒲池家来)、
下妻小田城(一説に溝口城)に居り、五町(五百丁)を領す」とあり。
3,豊前の溝口氏 − − 宇佐郡の名族にして、天文永禄の頃、溝口左近将監あり。
溝口氏古記録に「溝口家は、八幡宇佐宮の神人にして、大宮司専使として、
大小の神事に殿上に神勤し来れり。然るに宣風の代に当たり、天正四年、
大友氏の族 奈多鏡基の兵火を蒙り、家系、旧記、悉く焼失して古代の世系を
詳にせずと謂えども、宇佐宮旧記、及び宮成大宮司始祖より三十八代に当たる
豊筑対 三州大守 正三位宇佐公通卿の菩提所たる安楽院旧記などに存する
所により、応安年中、溝口左馬亮藤原朝臣親宣より二十七代、世々神勤し、
兼神領知行田検印を役せり。よって知行田 二反、並びに神領御蔵米の内より
家禄として六石五合の配当を受け居れり。王政維新に際し、明治五年、
教部省より神勤を免ぜらる」と。
4,讃岐公姓 − − 讃岐の名族にして、全讃史に
「池田城は池田村にあり、池田遠江守景光ここに居る。殖田氏の族なり。
池田山城は、池田村にあり、蓋し、王佐山の東に小岡あり、これか。
溝口飛騨これに居る。又、殖田氏の族なり」と。
5,清和源氏武田氏族 − − 尾張国海東郡(中島郡)溝口村より起こる。
「逸見又太郎義重(上総介光長四代孫)の後裔、美濃大桑郷の地頭
なりしが、後 尾張国溝口郷に住して、溝口を称号とす。彦左衛門勝政、
溝口郷を領す。その男 伯耆守秀勝なり」と
秀勝、秀吉、家康に仕え子孫 連綿なり。
6,新発田侯 − − ェ政系譜に
溝口秀勝−宣勝−宣直−重雄−重元−直治−直温−直養−直信−直俣−直諒−直溥−直正−宣正−真亮 越後新発田十万石 家紋 掻摺菱、菱井桁、明治 伯爵 |
7,岩代の溝口氏 − − 上記の宣勝の二男 又十郎宣秋(六千石)の後にして、当国岩瀬郡の
横田に居り、交替寄合なり。
系図は「宣秋−摂津守直道−修理直行−弾正直ェ、弟 修理直福−弾正直英
−式蔵直清−摂津守直静(五千石)」。
8,美濃国の溝口氏 − − 書家にあり、溝口荘司成従は、和様書道の流派 溝口流を起す。千谷と号す。
その子 成暁は、暁谷、その子 成住は、源谷と号す。
9,清和源氏小笠原氏族 − − 信濃国伊那郡溝口村より起こり、溝口城に拠る。
応永中、小笠原信濃守源政長の三男 氏長、ここに築城、始めて溝口と称す。
系図は「その子 秀行−政行−秀重(文安二年三月、善光寺大黒塚に討死)−貞信−氏友」也。 |
10,尾張小笠原流 − − 上記の裔にして、ェ政系譜に
「左京亮(信長家臣)−與十郎常長−外記常吉−半左衛門重長(政高、六百石)、
家紋、丸に三文字、松皮菱、丸に三柏、五陵菱、丸に違い鷹羽、丸に二引(三引両)」と。
11,桓武平氏 − − ェ政系譜に「家紋 丸に違い鷹の羽、丸に二引(三引両)」と。
12,加賀の溝口氏 − − 加賀藩給帳に「八百石(カスリ菱)溝口頼母、百石(蔦)溝口耕蔵」とあり。
13,他
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