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三 好(ミヨシ) |
解説 |
阿波国に三好郡ありて、和名抄に美與之と註す。 その他 三河などに此の地名あり。 長野県中野市、静岡県三島市にこの地名あり。 |
分派氏族 |
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1,清和源氏小笠原氏族 − − 阿波の名族にして、三好郡より起こる。
小笠原長清の後なり。室町時代 四国の守護、細川氏の家臣となり、
戦国時代には主家をしのいで、幕府政治の実権を握る。三好長慶は、
松永久秀とともに下克上の代表的人物。家紋、三階菱、釘抜。
2,讃岐の三好氏 − − 全讃史に「與北城は、奥北村にあり、三好豊前守義賢、天霧城を
攻める時の軍営の所なり。天正の年、土佐元親、中島與兵衛をして
これを守らしむ」と。
3,畿内の三好氏 − − 南海通記に「三好宗三を以って摂津国芥川城を守らしめ、
京方 山崎表の先鋒とし、池田、伊丹、清水、茨木、吹田、多田、高槻
などの将兵これに属す。三好長慶を以って河内国飯盛山の城を守らしめ、
京方 八幡表の先鋒とし、河州の将兵これに属す。三好山城守をして高屋の城を
守らしめ、三好日向守をして境の津を守らしめ、三好下野守をして岸和田の城を
守らしめ、各々紀州 和州の便宜を窺う。皆、長慶に属せしむ。天下の大事に
及ぶ時は、近江の佐々木氏と力を合わせて、相ともに救わんとす。故に強域を
近うして交を結ぶ」と。
4,摂津の三好氏 − − 伝え云う「西成郡の中島城(三津屋村光恵寺境内)は、三好宗三の
居城なりしが、天文十八年六月二十四日、長慶と戦って死す。これは北中島の
中島城にて、細川常植の中島城は 南中島にあり。又、江口城は、一説に江口の
中島城とも云う。これも三好宗三の居城なりしが、天文十八年 長慶に攻められて滅び、
長慶の所有となり、後、中川氏拠ると云う。又、有馬郡の有馬城は、一説に
童子山城(湯山町)とも云い、宗三の旧城と伝う。播州の三木城主 別所豊後守と戦って敗れ、
河内の高屋城に入る。後、有馬氏の所領となる。又、東成郡の榎並城(榎並町)も
宗三の築きし城にて、その子 右衛門大夫政勝、居守し、天文十八年、宗三の戦死後、
政勝 当城を棄てて 瓦林城に奔る。又、豊島郡原田村の北城は、三好日向守の居所と伝え、
又、島上郡の郡家城も三好氏の支城にして、三好之長の子 長光、芥川氏を称して、当城に拠る」と。
5,河内の三好氏 − − 当国、三好領となるや、永禄三年十一月十三日、長慶、飯盛城に入り、
同七年七月二十四日、当城にて逝去す。後、その子 義長 当城にありしが、八年七月、
高屋城に移り、三人衆の三好政康 城主となる。同十一年九月、信長 摂津を攻めるや、
政康、四国に逃げる。
6,和泉の三好氏 − − 海船館(堺市海船町)は、三好氏の館舎にして、永正元年二月十八日、三好長輝
この地に一大館を起さんとし、四月八日起工す。その子 長基に至りて落城す。
その子 長慶、義興を経、義次の滅後、その子 中村義亮の妻 豊姫(将軍義昭の娘)この地に
隠れしと云う。
その他、家原城に三好左京大夫義次、岸和田城に三好豊前守義賢あり。
7,浅井氏族 − − ェ永系図に「三好、本国 近江、浅井氏なり」と。
家伝には、橘氏と称す。直政に至り浅井を三好に改むと云う。
ェ政呈譜に「藤原姓、浅井新三郎政重の五代の孫 茂左衛門政高の後」とあり。
ェ政系譜、藤原北家公季流に収む。「政高−直政−石見守政監(能登守、丹波守)−監物勝政、
家紋、丸に井桁、牡丹、丸に丁文字」と。
又、近江国 蒲生郡北比都佐村石原に三好弥太郎と云う者あり。三好長慶の末裔と云う。
家紋、菱、菩提寺は小谷村の天台円寺なり。初代 祐長法印。
8,尾張の三好氏 − − 三好長慶の叔父 康長(山城守)は、信長、秀吉に仕えて功多く、秀次を猶子とす。
よって秀次は 初め三好孫七郎と称す。
9,幕臣三好氏 − − 因幡守一任、信長、秀吉、家康に歴仕して、二千二十石を領す。
ェ政系譜に「之長−元長−長慶−善長−一任(因幡守)−長富(ェ永三年、家光に
まみえ奉る)−長広−長栄−倚長−長義−長逵、家紋、三階菱、釘抜」と。
10,加治流 − − 三好系図に「長元−長継(加治権介、長慶の娘を娶り長勝を生み、再び
三好日向守長縁の娘を娶りて若州に生む)−長勝(隠岐守、七歳 質人となり安土に入り、
十八入洛し、柴田勝家に仕え、後、尾藤一に仕えし也。後に長州の萩に終る。休庵少林と号す。
七十六歳、葬 浄念寺)」と。
11,長州の三好氏 − − 長州藩の勤王家 三好軍太郎重臣は、幕末 明治に功多く、子爵を授けられる。
その子 東一なり。
12,陸前の三好氏 − − 阿波三好氏の一族 三好義元は、銃術を善くし、伊達政宗に仕う。五百石。
その裔 義徧、その男 義明、その男 監物清房は、勤王党の士、自刃す、贈正五位。その男
清X。
13,他
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